二人が初めて共にした夜。藤本さんは夜空の下で『知床旅情』を歌ってくれました。登紀子さんは、そのとき、はっきりと気付きました。
「歌はどこで歌っても、プロであろうがアマチュアであろうが誰が歌ってもいい。すべての人に宿っている思いなのだ、と。私は何をやっているのだろう。歌手らしい歌をうたうのではなく、歌手になるというのは『私をする』ことなのではないか、と」
藤本さんが拘置所にいる間にできたのが『ひとり寝の子守唄』。しんと心の隅にまで響く弾き語りのその歌は、1969年、彼が出所した日にレコーディングされました。 多くの人たちにとって、GSサウンド全盛の当時に、若い女性歌手が歌うには地味な曲に映ったかもしれません。
「そのとき、ある有名な作家の曲を売り出すつもりで、大阪で1週間キャンペーンをすることになったのです。そのとき、新聞記者たちと夜な夜な飲み歩いたの。そうしたら、高石ともやさんのマネージャーが酔っ払って言ったのです。『加藤登紀子、あのキャンペーン曲はなんだ?なにやってんだ? 何をしたいんだ?俺はガッカリしたぞ』と」
その思いは、実は登紀子さん自身の意識と無意識の境目に強くある言葉だったようです。
「私も酔っ払っているし、その言葉に無性に腹が立ったの。『あんたに何がわかるの』と、その人のことをパシパシ殴ったみたい(笑)」
エダさんと呼ばれていた大阪のスポニチの記者が「おとき、おまえさんはもうホテルへ帰れ」と送ってくれたそう。
「翌日、その高石さんのマネージャーがにやにや笑って私に言いました。『俺は昨日、36発殴られたよ』って(笑)。でもその一夜を境に私は向こう岸に漕ぎ出す決意をしたのです。いろいろ自分で曲を作っていたけど言い出せなかった。やっぱりこっちだった」
やがてそのときのことがきっかけとなって、高石ともやとジャックスと加藤登紀子のジョイントライブが実現しました。
「私に殴られた男が企画してくれたのね(笑)。5曲ぐらいうたったんだけど、『ひとり寝の子守唄』しか通用しなかった。その後、新宿で飲んだときに東京のスポニチの小西良太郎さんの前で歌ったのね。すると良太郎さんがあれは人生で一番素晴らしい瞬間だった、と、50周年のパーティーでスピーチしてくださいました。それをきっかけにレコーディングも決まったのです」
『ひとり寝の子守唄』は9月に発売され、その年の年末のレコード大賞歌唱賞を受賞しました。
そこから今年で50年なのです。