アイルランド、コーク州にあるBallymaloe Cookery Schoolに留学した舘野さんは最初の授業で大きな衝撃を受けました。
「最初の授業がみじん切りだったのです。だいたい料理が少しできる日本人なら誰でもできるでしょう。それで私は校長先生に『もっと料理の技術を学びたい』と言ったのです。するとこう言われました。『料理の8割は素材で決まります。そういうことを学びにくるところなのですよ』って。160ヘクタールの広大な土地で、遠足のように野菜を摘んだり、チーズ作りを見に行ったり、漁師さんのところへ行ったり。本当に勉強になりました。寄り道も多いけど、ぶれていないし、生産者とつながるという意味で」
充実した留学生活を終え、帰国した舘野さんには、日本で厳しい現実が待ち構えていました。
「付き合っていた彼氏にふられ、仕事もなく、住むところもない。預金通帳の残高は20万になり、あと1ヶ月かなあというときに、病院時代の後輩から電話がかかってきたのです。『なんかテレビの料理番組でフードコーディネーターを探しているみたいなんですが、やってみますか』と。私が『やったことないし、無理だと思うよ』と言うと『そういうこと言ってる状態ですか。どうするんですか。 実家に帰るんですか』と突っ込まれて」
ダメ元でテレビ局のプロデューサーに会った舘野さんは、その仕事を引き受けることになったのでした。
そこから4〜5年はフードコーディネーターとして活躍していましたが、果たして、その仕事に疑問を感じるようになったと言います。
「見せるための料理を作ることが目的ですから。食材はがんがん捨てられてしまうのです。それがだんだんかわいそうになってきてね。もっと純粋な料理の仕事がしたくなって、バラエティ番組は辞め、管理栄養士と料理家の仕事へと舵を切ったのです」。
その後、舘野さんは全国の農家から直接野菜を買って料理するレストラン「六本木農園」の立ち上げに声をかけてもらい、シェフとして働くことに。
「初日から満席でした。忙しかったですね。家に帰れないので寝袋を事務所にもってきて寝ていました。そうしたら私がねをあげる前に夫がねをあげて「僕たちはなぜ結婚したのか話し合おう」と(苦笑)。そのうちシェフも入ってきて、私は生産者とレストランをつなぐ役割やワークショップを担当することになりました。そのとき、糀屋さん、酒蔵との出会いもありました。農家の生まれで知っていたつもりでしたが、全然違う。感銘を受けて、こういう人たちが産業を続けていけるように代弁者にならないとダメだなと思うようになりました」
世の中の発酵ブームの前から、醤油や味噌、梅干しなど健康につながる食を探究していた舘野さんは、料理という形で、今度は家庭によりよい食をもたらす仕事へと進んでいったのでした。