中井さんは、東京芸術大学音楽学部邦楽科に進学。1年生のとき、二十五絃箏と出会いました。
「野坂操壽先生という、二十五絃箏を開発した方がいらっしゃったのです。その頃、ちょうどそれを開発されて10年ぐらいだったのかな。僕は先生の演奏会を聴きにいって、本当に感動しました。自分のなかに流れている音楽と、その二十五絃箏の音色がしっくりとしたのです。僕のなかにはもちろん、幼い頃から触れた邦楽の古典もあるけれど、どちらかというと洋楽もたくさん聴いていました。その洋楽的なものにアプローチできる楽器だと感じたのです」
当時の中井さんは、上京して、できたばかりのブルーノート東京にしょっちゅう通っていたのだそうです。
「通路のところで見る、学生でも買える席があって、もう本当に通い詰めました。だから、ジャズとの出会いもその18歳の頃ですね。その後、20歳のときにキース・ジャレットのCDを聴いたのも影響を受けました。やさしく語るような音楽でしょう。二十五絃箏の曲は、楽器の歴史も浅くコンテンポラリーな曲なのですが、がつんとしたものが多かった。だから、そのやさしさに感動したのです」
それでも、生徒である中井さんは先生のつくった曲を熱心に二十五絃で弾いていたようです。しかし、その先生から思いもかけない言葉が。
「弾き始めて2〜3年目の頃でしょうか。『私のあとを追いかけても仕方がない。自分の音楽をやりなさい』と言われたのです」
ちょうどその頃、もうひとつ、大きな出来事がありました。
なんと中井さんは、自転車で走っているとき、車にはねられるという交通事故に遭ったのでした。
「鼻が折れたり、かなり大きな怪我をしました。それで、本番ができなくなって、作曲を始めたのです。22歳のときかな。作曲科の友人に習いに行ったりしましたけど、大学でもっと作曲の勉強もしておけばよかったと思いましたね。その頃、古典にも興味が湧いて、せっかくなら古典に根ざしたものをやりたいと、能を題材にした曲を書くようになりました。大学で教授だった観世流の野村四郎先生にはとてもお世話になりました」
堰を切った水のように曲が生まれ始めた中井さん。ポップスや商業音楽からも声がかかり始めます。
「メロディとコードだけが書いてある譜面を渡されて、自由にやってください、というようなオーダーも多かったですが、エレクトーンをやっていたので、コードのことも理解できたのでした。たとえばDmというコードがあったとき、手の感覚で、レファラ、と弾くのがいいか、ファラレと弾くのがいいか。次のコードに行きやすいのはどちらかなど、アプローチがしやすかったのです」。