物心ついたときから「女優になりたい」と思っていた田中さん。
「子どものときは『女優なりたい』が『女優になる!』、だったんですよ(笑)。なんの疑問もなく、女優になろうと思っていました」
それは田中さん自身だけの思い込みではなく、周囲にもそんな傾向があったのです。それは当時の久留米市がたくさんの芸能人を輩出していたという現実にありました。
「松田聖子さんや、チェッカーズが久留米市出身。だからどこか大人たちも『うちの子も芸能人になれるんじゃないか』と思っていた節があります。うちの母は私とは違うタイプの顔立ちですが、娘が言うのもへんですが美人系で、彼女も女優になりたい気持ちはあったようです」
小学校に上がった田中さんは、台本をつくって友達とドラマを再現したり、それをビデオで撮ったりするようにもなったそう。
実際に、プロダクションのオーディションも受け始めました。
「中学生のときに、地元のプロダクションに入りました。モデルの仕事を始めたのです。地元の広告を2年くらいやった頃、東京のプロダクションから声がかかり、オーディションを受けて、デビューできたという感じです。東京の事務所に入ったのは17歳のとき。ずっと思いがあったので、やっと! という感じでしたね。これでやっと前に進める、と」
しかしそこからの日々は周囲から見れば、大変な生活になりました。
「朝、授業を1~2時間受けて学校を早退し、バスで1時間かけて駅まで行って、そこから電車で空港に行ったりしていました。これに乗れなかった場合は、ここで降りて、なんてずっと計算していたのです。自分にとっては好きなことだし、毎日、刺激的でわくわくと興奮で過ごしていましたから、苦ではなかったです。
でも友達に話を聞くと、制服にリュック姿で『東京行ってくるわ』と言ってたので、びっくりしたと言っていました。『そんなにふらっと行く所なの』と」
その頃の田中さんを東京のスタッフは「野生的だった」と感懐するそうです。
「その頃は、野生的な匂いがする人だと言われましたね。田舎で育ったからかな。精神的には、早くスタートに立ちたいという鬱憤がたまっていたのだと思います。学校で先生に説明するのもめんどくさいし、大人に私のやりたいことを否定されるのは嫌だという思いもあったのです。そういう心に重なる異物感が私を悶々とさせていたのです」
本物の女優になりたいという渇望。ストイックでピュアな夢へのハングリーさが、10代の彼女をきらきらさせていたのでしょう。 CMや映像で、彼女はどんどん人気者になっていきます。