ドラマ『相棒』シリーズで見せる鑑識官役の一途で世慣れていない感じの男の役。旅番組『呑み鉄本線・日本旅』で見せる渋い横顔。はたまた、飄々と歌うバンドマンの姿。エッセイの執筆。… 俳優の六角精児さんは、実にさまざまな顔をもつ、味わい深い表現者。高校時代の演劇部からスタートした六角さんにしかできない生きかたについて、お話を伺いました。
六角さんの俳優人生が始まったのは、神奈川県立厚木高校時代。このフレグラボのスペシャルインタビューにもご登場いただいた横内謙介さんが在学中に脚本を書き、演劇コンクールで優秀賞をとった『山椒魚だぞ!』に主演したのが最初でした。
「横内の脚本は斬新でした。賞をとったのは、彼の功績です。出演した僕らは勘違いしたようなもので。今もそのまま部活が続いているような感覚をふと感じることがあります。僕は一度も就職もせず、浪人が決まったときに劇団に入ってしまいましたから。何人かで、そのまま劇団を始めましたが、本当に人生を棒にふってしまった人もいます。役者で食べていけるかどうかなんて、9割は運ですから」
真顔でそう語る六角さん。扉座の前身となる『善人会議』は、1987年には紀伊国屋ホールに登場することに。しかし、六角さんは何度か横内さんに「辞めたい」
と言ったことがあるそう。
「辞めると言ったのは事実です。主に学生時代ですけどね。だって他の部活やサークルの人たちは夏休みを楽しんでいるじゃないですか。でも僕らは稽古しなくちゃいけない。若い頃は、今よりお芝居というものに対して、興味も薄かったのかもしれません。それに見に来たお客さんに『つまらなかった』とか言われて。興味のないことをやっていて、それに対して文句を言われるなんてつらいですよ」
それでも役者を続けてきた六角さん。続けて来た理由、続けて来られた理由をこんなふうに考えています。
「続けて来られたのは、他にやることもないし、何かに長けていることもなかったから。それなりに食えるようになったのは、まずはただただ運がよかった。それ以外の理由を今考えるに、自分のなかで絶対的多数なものに興味をもたないようにしてきたことかもしれません。少数派の人たちが興味をもつことをやってきました。マジョリティーを狙わず、マイノリティーのシンパシーの強さと結びついてきたというか。たくさんの人のウケを狙ったことはないです。だいたい狙ってもウケないですから。自分の世界のなかで、自分の好きなものを選んで生きる。それに尽きるんじゃないですかね」
今の世の中は、どこか多数の人が動くほうへ倣うほうが安心する、という人が増えているのが事実。でも六角さんは、それにかぶりを振ります。
「演劇だけではなく、すべてにおいて、マーケティングが通用しない時代になってきていると思いますよ」
誰もが言えないこと。六角さんは隠れた真実を見抜こうとする目をもっている人なのでしょう。
「役者を続けてきたというのは大事なことだったけど。誰もが続ければいいというわけでもないですね。35~6歳でやっぱり周りの意見も聞いて、見極めることも大事だと思います。劇団は利益を追求する活動ではないですから」。