大ヒットとなった『悲しい色やね』。上田さんは当初、こう思いながら歌っていました。
「入りづらい曲やったね。消化不良やった。だから、売れたときは、落ち込んでしまった。こんなんでええんかな、と。そやけど、ヒットして、みんなこの曲が好きになってくれてね。今でも、リアルタイムに聴いたわけじゃない若いコが、泣いてたりしてね。こっちがびっくりしたり」
なんとも意外な話。しかし、今回は違います。
「今はいいですよ。今回のはいいと思う。やっと50年近くなってR&Bが歌えるようになってきた気がする。そのくらいかかるんよ」
上田さんは本物のR&Bを崇拝し、模索し、こだわってきました。
「BBキングに会ったとき『おまえの歌はアーバンですごく新しい。いい』と言ってくれて、それがあのときの僕の真っ暗なトンネルの向こうの光になった。音楽はね、ものすごくプリミティブなものやと思うんです」
90年代の初めに、上田さんは西アフリカのセネガルでライブをやっています。
「POSITIVE BLACK SOULというセネガルのヒップホップのチームとセッションして。彼らとダカールで数曲レコーディングした。そのときにそのときに、やっぱりアフリカやと思った。言葉より先にダンスがあった、リズムがあったっていうんやから。街で3歳の子どもがソリストとしてパーカッションを叩いてたりする。鼻腔を膨らませて気持ちええっていうのを体感して体現してるねん。2回僕が茶々入れたら、止めてくれーって泣いてしもた(笑)。そのくらい、DNAに刻まれた気持ち良さがあるわけ。僕はその一番遠いところを目指してきたんです」
ビートルズより、もっと向こうにある音楽。でもおそらく上田さんには「鼻腔が膨らむ感じ」が響いたのでしょう。
「僕も高校時代、アニマルズのコンサートを聴いて、人生変えようと思った。ミュージシャンになんとなくなりたいじゃなくて、絶対にミュージシャンになる。そう決めた。それで18歳のとき、ギターと風呂桶だけもって家出して、天王寺で3ヶ月くらいホームレスやってました。あの頃の天王寺公園はまだ下が土でした。地べた座ってギター弾いて歌ってたら、おっちゃんらに『英語の歌、やめー』言われてな(笑)」
以来、自分を導く60年代のR&Bレジェンドたちに感謝しながら、ひたすら音楽で生きてきた上田さんは、自分のことを「ラッキー」だとなんども言いました。
「みんなに食べさせてもらってきた。ありがたいことに50年歌い続けられる。来年の7月7日で72歳になるんやけど、72歳で何かがわかる、ってずっと思ってきた。確信になってきたよ」。