19歳から太鼓を打ち始めて今年50年。佐渡國鬼太鼓座、鼓童の創設に関わり、1982年からはソロ奏者としてベルリンフィルなど世界的なオーケストラとも共演してきた林英哲さん。長きにわたる活動とさらに未来へと挑戦を続ける求道心について、穏やかに話していただきました。
先ごろ、多くのファンを集めて行われた東京・サントリーホール大ホール「独奏の宴〜絶世の未来へ」のレポートとともにお届けします。
打面直径3尺4寸(約1メートル)という和太鼓に向き合い、全身全霊で打ち続ける。そんな演奏を50年にわたって続けてきた林英哲さん。
1970年、上京してきた林さんは、ただ純粋でまっすぐに美術を志す青年でした。
「上京した当初は太鼓を目指す気持ちは全くなかったのです。美大に入りたかったので。ところがあるプロデューサーに『美術をやるにも、世界を見た方がいい』と言われ、鬼太鼓座の前身となるものに誘われたのです。若い、体力のありそうな若者が集められていました」
ところが、この団体は、音楽という意味ではかなりかけ離れた団体でした。ただただ走り込みをさせられる毎日。コンサートをするにも、オリジナル曲というものもありません。
「とりあえず、みんなで各地の郷土芸能を習いに行こうということになりました。私はもともとドラムをやっていましたが、日本の太鼓と出会い、ある意味ではがっかりしましたね。地方に伝わる太鼓芸能は、集団が目指そうとした、長時間の舞台で演じる作品として鑑賞に耐えうるというものがなかったのです。もちろん、地元で愛され守られてきたという素晴らしさ、伝統的な民俗芸能としての価値はありますが、地方の方達は音楽という意味では素人なので、アドリブだらけですし、自分たちでは説明できないのです。だからどう教えていいかもわからないし、私たちもどう覚えていいかもわからない。それにまず、日本の太鼓は、太鼓だけで全てを成立させるという発想がなかったのです。お囃子のように他の楽器があっての太鼓、という位置付けが圧倒的に多かったですから」
「太鼓を目指す気持ちは全くなかったのです。『美術をやるにも、世界を見た方がいい』『太鼓で世界を回って資金集めをして、佐渡に職人大学を作る』『七年で解散する』などと、ある人にと言われ71年に佐渡国鬼太鼓座の前身となるものに入ってしまいました。入って初めて日本の太鼓と出会いましたが、がっかりしました。
太鼓の指導を受けるために、各地の郷土芸能を習いに行きましたが、郷土芸能の太鼓の打ち手の方々はプロではないので、打法もアドリブだらけですし、特別な指導方法もなく、自分たちでは説明できないのです。だからどう覚えていいかもわからない。それに教えてくれる人たちが打っている太鼓は、お囃子のように他の楽器があっての太鼓、という芸能が圧倒的に多かった。だから舞台演奏として鑑賞に耐えうるというものはなかったですね。偏見ではなく、そこは客観的にそう思いました。集団が目指そうとした太鼓だけで、全てを成立させるという発想はないのです」
そういえば神社の御神楽で聴く太鼓も、伝統芸能の舞台で見る太鼓も、他の楽器とのアンサンブルで聴くものです。太鼓だけで音楽を完成させるにはどうしたら良いか。そこで林さんは聴き伝えの太鼓のフレーズを録音してリズム譜に起こし、舞台で集団で演奏をする作品として構成しました。
「教えてもらった郷土芸能の太鼓を整理して10分ほどの舞台用の曲を作りました。いや、作曲というより、構成・編曲とでも言うのですかね、ようやく5年後、初めて海外に出たときに、持っていた曲はそれを含めて、まだたったの2曲でした」
5年後、初めての海外ツアーでグループはデビュー。若者たちが集団でストイックに打ち続ける太鼓は、日本人の精神性と肉体の美しさが評判になり、また、世界にも例のなかった舞台芸術として、主宰者の思惑通りまず北米・ヨーロッパで注目を浴びました。しかし林さんは悩み続けていたようです。
「外部との接触はない、収容施設のような暮らしでした。ビートルズのレコードをかけると叱られました。だからソロになったときは、新しいこと、人と違う表現をしたい。いままで日本の太鼓でそんなことをしている人はいないという事、太鼓の桴(ばち)を絵筆と思って、芸術の新しいものをやるんだ、という気持ちを常に持ち続けてきました。縛りがなかったのです。これがもし、鼓のように家元制度があるような邦楽楽器なら自由にはできなかったでしょう。太鼓は世間からそういうふうに顧みられていなかったので、自分のやり方ができたのです」
鬼太鼓座、鼓童を経て、ソロ奏者となった林さんは、国内外、さまざまなジャンルの音楽家たちに注目されることとなってゆきます。