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第2話 『小鍋きりたんぽ』
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 海はなぜ凍らないのだろう。冷たい風を全面に受けながら、それでもまだ鈍色の波が動いている。
 盛田幸は海岸通りのマンションの6階に住んでいる。ここを借りるとき、自分と同じ50代と思しき不動産屋の女性が言った。何度か通ううちに津田典子、という名刺をもらっていた。津田さんは言った。

「海見えの物件、なかなか出ないんですよ。ま、ちょっと不思議な間取りなんだけど」

 ちょうど5畳ほどのキッチンがあるほかは、26畳、スタジオのように何もない一部屋なのである。マスクをしたままの2人は、頭をくっつけるように見取り図を覗き込んだ。津田さんはトントン、と人差し指でそれを叩いた。

「なかなか、ここを借りたい人ってライフスタイルが見えないじゃないですか。2人で住むにしたって、あまりにもお互いプライベートがないでしょう」

「確かに、海が見たい一人暮らしで、ま、ちょっとお客さんが来たら喜ぶかも、みたいな」

 幸はつぶやいた。もしも大阪から、店にいた女の子たちが来たら喜ぶかな。ま、いつ来るか知らんけど。
 そうやって、決めたのが2年前の夏だった。そのときは、横浜ってあったかいんじゃないかと勝手に想像していた。
 しかしどうだろう。今日のこの寒さは。

 「さぶー」

 二重カーテンの隙間から、硝子にぶち当たる風を見るともなく見る。そして、こういう時にはなぜか大阪弁が口をついた。

 その時、スマホのInstagramにメッセージが届いた。

ー 明後日、父が行くと思います。なんか食べさせてやってください 凛花

 この間の、傷心女子からか。しかし嬉しい話である。

ー お父さんは、何が好きかしら

ー 父は秋田出身なんです。歯医者やってるんですけど。

ー へーえ。

 幸はちょっと驚いた。山手に秋田の人が住んでいるなんて。歯医者になって、大成功したんだろうか。
 翌日、幸は有楽町の秋田物産館へ出かけて行った。

🥂1glass

 あんまり寒いので、バーでは熱燗とホットワインも出すことにした。看板の隣に「熱燗、ホットワインあります」と、貼り紙をし、写真を撮ってInstagramに上げてみた。コメント欄には「今日のテーマは秋田です。秋田のもの、ちょっとあります」と、控えめに書いた。

 凛花の父親らしき男は、8時半ごろ現れた。
 上背があり、グレーのやや薄い髪をきちんと七三に分けている。グレーのスーツにライナーのついたステンカラーのコート、襟元には燕脂色のカシミアの襟巻きが覗いている。

「いらっしゃいませ。お飲み物はいかがなさいますか」

「ウィスキーのお湯割りでももらおうおかな」

「あんまりいろいろないんですが、シーバスかバランタインあたりで良いですか」

「じゃ、シーバスで」

 グラスの横に、クリームチーズといぶりがっこの冷たいクッキーです、と、小さな皿を置いた。
 紳士は小さなフォークでそれを口に運び、嬉しそうに笑った。

「凛花が、お世話になったそうで」

「あ、やっぱり、凛花ちゃんのお父さまでしたか」

「はい、矢作です」

 幸は恐る恐る尋ねてみた。

「秋田のお生まれだと伺いました」

「まあ。もう40数年、こっちだからね。大学から東京で、医者になって、養子に入ったんですよ」

「へえ」

 魔法にかかったように、何も訊ねていないのに、客が話し始める。いつからそんなふうになったのだろう。いやもともと、幸にはそういう素養があったのかもしれない。
 紳士は訥々と語り始めた。

「まだ院生の時に結婚してね。この間の週末で40年だったんだ。ルビー婚とか言うらしい」

「おめでとうございます。じゃあ、ルビーを贈られたんですか」

「なんか勝手に買ってた。そこのフレンチで家族で祝ったよ」

「なんてお幸せな」

「凛花が彼氏を連れてくるとか言ってたんだけど、ダメだったらしいね」

 矢作は我が事のように肩を落とした。
 幸は伏せ目がちに言った。

「いいんですよ。凛花ちゃん美人だもの。まだいい人がいくらでもいますよ」

「でもあいつも35だからねえ」

「えっ、そんなに!? …あ、いえ、失礼しました。お若く見えたので」

 矢作はクスッと笑って言った。

「ママ、正直な人だね」。

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