大阪時代のヒトミとケイがやって来てからというもの、盛田幸は大阪が懐かしくなった。
家族といえば両親は亡くなっており、弟と年に何度か連絡を取る程度。ヒトミやケイに会えればそれ以上、誰かに会いたいというほどでもないのだが。
いったい何が懐かしいのだろう。
夜になると灯りがともり、俄然生き返るようになる北新地の景色や、のどかな淀川の河川敷や。道頓堀にかかる相生橋あたりの雑居ビルの風情や。水面に映る、赤や青のネオンの影がかけらのようにゆらゆらと蠢いているのやら。
都心や横浜・元町のあたりの景色と比べて、それはけっして美しくはない。
美しくはないけれど、心に刻まれた景色だ。
そして景色以上に五感に刻まれているのは、そこで食べたさまざまな食べ物だった。
高級な料理もたくさん食べたはずなのに、何故か思い出すのは、財布から自分でお金を出して食べた味だった。
キムチをたっぷり入れた、夜中に食べる金龍ラーメン。透き通った熱々のスープが沁みる揚子江ラーメン。お菓子みたいなアメリカ村の甲賀流のたこ焼き。ほっとする出汁の川福のうどんすき。大阪にあって江戸風な北新地の轟庵の蕎麦。一人20個なんて平気で食べられる、天平の餃子。
あの時、あの人と。あの時、ひとりで。
思い出していると、たまらなく食べたくなるのだった。
その日は梅雨の合間の、あまり気温の高くない日だった。
Instagramの店のアカウントに、メッセージが届いた。
「先日はありがとうございました。セルジュさんに連れて行ってもらった大城です。実は僕、web編集部に異動になりました。それで、早速、大阪のB級グルメの特集をやることになったんで、盛田さんにいろいろご教示いただけないかと。で、今夜とか伺ってもいいですか」
さっき大阪の食べ物のことを思い出していたから、呼んじゃったかな、と幸は嬉しくなって、返信した。
「もちろん! ただ、私の情報はあんまり新しくないから、最近のことはまた別の方に聞いてね」
「了解しました。では、18時に伺います」
「お待ちしています」
そう返信して、幸はふと思い出した。彼を私以上に待っているのは、凛花ではないかと。
少し考えたが、思い切って凛花にメッセージをした。
「凛花ちゃん。今日、大城さん、店にいらっしゃるわよ」
返信はすぐに来た。
「何時ですか」
「18時だけど仕事の話があるから、19時ぐらいならいいんじゃないかな」
「行きます💗」
凛花のハートマークに、幸はクスッと笑った。さてさてどうなるか。下手に派手な援護射撃をしても、昔気質な大城の心を捕まえることはできない気がした。
どんな女性が好きなのか、その前に聞いておかなくては、と。
大城はそのメッセージ通り、18時きっかりに颯爽と現れた。
今日も真っ白なTシャツにネイビーのブレザーだ。ただし、その素材がサマーウールから麻になっていた。
少し小麦色の肌に、とても似合っている。上着をハンガーにかけ、スマホをカウンターに置いて、彼はクラフトビールを注文した。
「こんばんは。よく憶えていてくださいましたね」
幸は缶からグラスにビールを注ぎながら微笑んだ。大城は真顔で頷いた。
「忘れないですよ。アスパラベーコン、うまかった」
ビールをひと口飲むと、にっこり笑って、真っ直ぐに幸の目を見た。