齢を重ねると、おじさんたちはおばさんになるものだ。
そしておばさんの自分はおじさんに近づくのかもしれないと思う。なんていうことはない。みんな、他人のことが気になり、妙に噂好きになるのである。
バレンタイン・デーが近づくと、常連客のおじさんたちはたまにバイトに来る凛花と編集者の大城クンがその後どうなったのか、気になり始めた。
リーダー格のセルジュさんは、大城クンの元上司でもあるが、あえて本人にはその話題を聞かないことにしているようだった。
「人の恋路は邪魔しちゃいけないからね。あとは本人たち次第だから」
幸は頷いた。
「そうですね。私も、凛花ちゃんには何も聞いてないんですよ。変なプレッシャーかかってもいけないし。それでなくても、ここにいるみんなが知ってるんだから、すでにプレッシャーですよね」
「プレッシャーと言えばさ。この間、ビリー・ジョエルを観てきましたよ」
セルジュさん率いる3人組のうちの一人が言った。最近まで建築会社に勤めていた黒縁メガネの人で、名前はなんだったか、ああ、吉田さん。
幸は心底羨ましいという声を出した。
「いいなあ! プレッシャー、っていう歌ありましたね。あれ、コンサートでやりました?」
吉田は残念そうに首を振った。
「あれはやらなかった」
3人組のもう一人、顔がテカテカしてる、小日向さんが思い出したように言った。
「プレッシャー! あの曲でディスコで踊ったよ」
その途端、全員が小日向さんを無言で見つめた。幸は申し訳なさそうに言った。
「踊れるような曲でしたっけ」
「え、… 踊ったよ。俺は踊った。♪タタタタ タタタタ タタタタ タタタ」
右手をグーにして挙げながら歌う小日向を笑っていると、入り口で、不安げに覗き込む黒タートルの男の顔が見えた。
「あ、この間の!」
幸は走り寄って、ドアを開け、客を招き入れた。
セルジュはその男を知っているようだった。
「あの、ひょっとして…チェリストの佐伯洸さんじゃないですか」
「あ… はい」
黒タートルの男は悪事がバレたかのような複雑な表情になった。
社交的なセルジュは挨拶せずにはいられないという風だった。
「すみません。僕は以前、雑誌の仕事をしていまして。あなたに誌面にご登場いただいたことがありましたよ。イタリアのテーラーメイドのスーツを着てもらった… 何か別のCMの仕事でミラノに行かれていて、途中、うちの取材の時間をもらったんじゃなかったかな」
「ああ、あの時の!」
佐伯洸の顔が一瞬、パーッと明るくなった。良い思い出だったんだな、と幸は思った。
「ご無沙汰しています。その節はおせわになりました」
「いやあ、こちらこそ。ここでまた出会うとは、奇遇ですな」
「この坂の上に、今、仕事場を借りていましてね」
「そうですか! 僕もここによくいますよ。いやあ、嬉しいなあ」
幸は二人を見守っていたが、話の切れ目を見つけて佐伯に訊ねた。
「お飲み物は」
「白ワインを。この間のリースリング、美味しかったな」
「今日はドイツのリースリングならあります」
「じゃ、それを」
「はい」
幸は小さなセラーから、深い緑色の、すっとした肩のないボトルを取り出した。