梅雨の晴れ間からすでに気温は30度を超えた。
海からの湿気を帯びた空気は熱く膨らむようで、横浜の夏を覆っているようだった。
結婚式が終わった凛花と大城は長い新婚旅行へ出かけていった。
なんでも、パリからローマ、フィレンツェと巡るゴージャスな旅らしい。円安もモノともしないのは、矢作家からの出資があったからのようだ。
日が照ると逃げ場のない代官坂は、いつか凛花の頭に止まったカラスもどこかの木陰に避難しているらしい。土日限定のランチに訪れる人も少なくなり、ヒトサラカオル食堂は夕方早めから店を開けるスタイルになっていた。
「冷たいクラフトビール、ハイボールあります。素麺のアレンジもいろいろできます」
そうInstagramに書き込んで、幸は自分のために炭酸水に氷を入れた。少し自家製のレモンシロップを入れて飲むと、やっと体の細胞が目覚めるようだった。
夏らしい、パチョリのお香をたく。薬っぽい独特のクセがあり、からい感じのする香りだ。いかにもお香らしい香りというのは、場を浄化してくれる気がするから不思議だ。
「さて、浄化完了」
そう思った矢先、扉のガラスの向こうに黒い物影が見えた。
「誰」
扉が開き、黒ずくめの背の高い男が立っていた。黒いTシャツに黒いパンツ。手には事務封筒、肩に大きな一眼レフのカメラをかけている。髪は横に広がってボサボサで、昔のアニメの「魔法使いサリー」のお父さんのようだった。
カメラ?週刊誌の記者だろうか。
「何かご用ですか」
「あの、盛田幸さん?」
「そうですが…」
幸はひるんだ心と裏腹に語気を強めた。真夏に黒ずくめのこんな男に、フルネームを知られているのは気持ちが悪かった。
「あの、凛花に聞いたんだけど。この間の結婚式の写真をプリントしたんで、どうしたらいいかって聞いたら、ここのママに預けてくれって」
そのとき、幸は一瞬にして思い出した。この間の結婚式で、新郎新婦が教会から出てきたところを撮影して、矢のように消えていった男だ。
「確か… 凛花ちゃんの…」
「元カレのカニオです」
幸は笑うとも怒るとも取れない複雑な表情で「どうぞ」と、席を示した。
カニオと名乗った黒づくめの男は初めての店なのに、10年以上前から来ている客のように堂々と真ん中に座った。
幸はこの男の黒いファッションには、佐伯のような清潔感がないことに気づいた。Tシャツにアイロンは必要ないかもしれないが、ひどくくたびれていた。
だいたい、凛花とまだ連絡が取れる状況だったのだということに、幸は驚いていた。凛花はそれを許しているのか。そして、この店に写真をことづけるとはどういうことだろう。小さな憤りが一瞬あったが、いやいや、それは顔を合わせない、新しい住所を教えずに済む、賢明な判断だと思い直した。
「何か飲まれますか」
「うん。ビール飲みたいな。オレ、2000円しかもってないけど」
「…」
幸は大胆さと裏腹な懐具合にまた驚いた。
「じゃ、1杯だけ」
「小腹も空いてるけど」
「…」
幸はその言葉を無視するように、瓶ビールの栓を抜いて、冷やしたグラスと一緒にカウンターに置いた。
カニオはぐいぐいっと1杯目はほぼ一気に飲んだ。
「ああ、うまい。やっぱビールだな」
口の周りに泡をつけて、嬉しそうに笑った。妙に人懐っこく、憎めない笑顔だった。イケメンというわけではないが、妙な愛嬌がある。しばらく店の中を見回していたカニオは、手にしていた事務封筒を開いた。
「凛花の写真、見ます?」
「凛花って。凛花さん。もう人の奥さんなんですよ」
幸はたしなめつつ、封筒から現れた何枚かの写真を見た。
どの写真も、モノクロだった。とても自然で、素人のそれとは一味も二味も違う、趣があった。前撮りでポーズを作られたのではない、ふと見つめ合う大城と凛花の幸せそうな表情がそこにはあった。
「わあ、素敵」
幸は思わず口走っていた。
カニオは我が意を得たりと、畳み掛けた。
「ね。オレ、才能あるでしょ」
そう言うと、自分で瓶のビールの残りを全部グラスに注いだ。