「あー。飲んじゃった」
「800円でいいですよ」
「じゃ、もう一杯飲もうかな」
「2000円しかなくて、帰りの電車賃はあるわよね?」
「スマホにSuicaが入ってる」
「ああそう。じゃ、どうします?」
「肉食べたいな」
「はあ」
幸は思わず大きな疑問符に満ちた声を上げた。飲み物代は?あと1200円で肉を食べたい?この男、なんなの。
「あのね、消費税とかあるのよ。うちはカードか現金。paypayとかまだやってないんだけど」
「でも、オレ、肉食べたい」
駄々っ子のように口を尖らせると、カニオは子どものように無邪気だった。この男は、こうやっていろんな人にたかって、ごちそうになっているのだろう。
幸は話題を少しそらした。
「今も凛花さんの友達と付き合ってるんですか」
男は頬杖をついて、上目遣いに幸を見た。
「そんな話をよくご存知で」
そして、肩をすくめて首を振った。
「その彼女はどっか行っちゃった。結構毎月、寿司とかステーキとかごちそうしてもらったんだけどさ」
幸は読めた。この男はヒモ体質なのだ。女性に甘えては、ごちそうしてもらって生きている。
「あきれた。凛花ちゃんもあんたにおごってたの」
「凛花はそういうとこしっかりしてるから。あんまり高いところは行かなかった。せいぜいファミレスかな」
凛花は本能的に彼のことを見抜いていたのかもしれない。賢明だった。そして、大城と結婚できて本当に良かったと、幸は思った。
こういう男は、もう近づけないほうがいいだろう。
「わかったわ。私が今日は一皿だけごちそうします。その代わり、二度と凛花ちゃんに近づかないで。この店にも来ないでね」
「え」
カニオは一瞬、顔を歪めたが、ニヤリと笑って、Tシャツの上からお腹を撫でた。
「いいよ。腹減ったし」
冷蔵庫に2枚、ステーキ用の小さな肉があった。栃木産A5ランク。ミスジと言われる部位で、焼肉屋ではよく使われるが、ステーキ用としてはあまり売られていない。本牧のスーパーでは、それをお値ごろに売っていた。
この店で肉を頼む人はほとんどいない。余ったら自分用に食べるのみだ。そんな1枚だった。
幸はお皿に、今朝つくったばかりのカポナータを添えた。野菜をすべて7ミリ角に切ってある、ソースのようにもなるカポナータだ。
肉を焼く。
にんにくをたたき、オリーブオイルで焼き、ホクホクにして先に取り分ける。一緒に唐辛子も香りだけ出してこちらは取り出してしまう。香ばしい香りが店中に広がった。
温まったフライパンにステーキ肉を置き、トリュフ塩を振る。
焼き時間は、両面合わせて1分ほどだ。
取り分けておいたにんにくを載せる。
「はい。唐辛子オイルで焼くって感じだから、ペペロンチーノ・ステーキね」
そう言うと、幸は黙って、ルイ・ジャドーのブルゴーニュの赤ワインを抜いた。ワイングラスを二つだし、注いで、一つをカニオの前に置いた。
「さよならの乾杯をしましょう」
カニオはうん、とちょっと視線を落として、グラスを取った。
「凛花さんにさよなら、ね」
「うん」
ワイングラスはカチリと音を立てて合わさった。
「肉、ちょっぴりだなあ」
「人のおごりなんだから、文句言わない」
「ちぇ」
カニオはフォークとナイフを手に取り、何も言わず、時折カポナータを肉にのせながら、ひたすら食べた。