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第22話 『辛くて甘い人生のようなガパオライス』
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  • 第22話 本日のお客様への料理『辛くて甘い人生のようなガパオライス』

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 秋の入り口だというのに、うっすらと風が吹きつつ、日差しは夏のままだった。
 代官坂はトンネルから二手に分かれて左に行く方が急な斜面になる。途中のブラフベーカリーあたりで立ち止まり、岡部良介はハンドタオルで額の汗を拭った。

「手ぶらで来いよ。うちには4台あるから」

 学友の佐伯洸はそう言って良介を、自分のスタジオに誘った。一緒にチェロの練習をしようというのだ。佐伯はそこへ他の誰をも入れることはなかった。東京で同棲しているマネージャーさえも。そのことを良介は知らずにやって来た。病み上がりの体に坂道はかなりきつかった。

 坂の上にその建物はあった。

 チャイムを押そうとすると、もう佐伯が扉を開けて顔を出した。

「よう。大丈夫だったか、坂」

「ああ、まあな。…すごいなあ。大したもんだなあ」

「上がれよ」

「うん」

 良介は素直に靴を脱いだ。

 スタジオは、2階の部屋を改装してあるらしかった。まずはリビングに通された。

「広っ」

 素直な良介は思わず口に出した。
 ベッドにもなりそうなイタリア製の大きなソファーが置いてあった。その前にテーブルが一つ。大きな画面のモニター。パソコン。本来なら6人がけのダイニングテーブルが置いてあっても良さそうな部屋だから、ガラン、としている。そこにも1台だけ、チェロが置いてあり、片面の壁には珍しいどこかの国の弦楽器が5つ6つかかっていた。その下には、丸椅子と間違えそうになる、革張りの打楽器が背比べするように並んでいる。

「洸の音楽城だな、ここは」

「まあな」

 佐伯はキッチンの冷蔵庫から、紙パックのアイスコーヒーを出してきて、氷を入れて注いだ。

「牛乳要る?」
「いや、そのままでいいよ」

 二人は少し離れて、ソファーに座った。冷たいアイスコーヒーはキャラバンコーヒーが出しているものらしく、濃厚で良い香りがした。わざわざ元町へ降りて佐伯が買って来たものだった。
 手術で嗅覚を失ってしまっている良介は、コーヒーの香りを思い出しながら飲んだ。そうしなければ、ただの苦い水だったから。

「上の部屋が防音になってるから。上がろっか」

「おう」

 その部屋には、もう2台のチェロと椅子が待っていた。奥には誰も座っていないが、グランドピアノもあった。

「すっかり用意してもらって、…悪いな」

「いや…」

 二人は並んで座った。良介は言った。

「あのさ。長いこと触ってないからさ。すげえ差がついちゃってるよ、俺ら。いいのかな。なんか、こんなしてもらってさ」

 佐伯はその問いには答えず、黙って楽譜を指した。

「良介が先に主旋律を弾くんだ」

「え」

 良介は慌てて老眼鏡をかけ、一心に目を見開いて、譜面を覗き込んだ。

🥂Glass 1

 その頃、ヒトサラカオル食堂には、久しぶりに凛花が一人で訪れていた。結婚式は6月末で、その後新婚旅行だったから、彼女もまだ見た目には何も変わらない。

「お家、落ち着いた?」

「いやー。まだ、段ボールあります。なんかもう全部捨てちゃおうかと思うくらい」

「新婚なんだから全部新しくていいんじゃない? 捨てちゃえば」

「大城の、ですけど」

「あらま」

 二人は大笑いした。幸は「大城」と名字で夫のことを呼ぶ凛花のことを好もしく思った。やはり山手のお嬢さんなんだなと。
 きっと安定した家庭をつくっていくことだろう。幸はちょっと安心して、棚の奥から例の写真を取り出した。
 凛花の元カレのカニオがもってきたものだ。
 前回、お土産をもってきたときは、大城と二人だったので、渡しそびれたのだった。

「これ、来たわよ、カニオ」

「ほんとに来たんだ」

 凛花はおでこと眉間に少々皺を寄せた。
 しかし、茶封筒から出てきた写真を見ると、あっと明るくなった。

「いい写真じゃん」

「凛花ちゃん、ここへ届けるように彼に言ったんでしょ」

「…ごめんなさい。迷惑だったですよね」

「全然。…でもね、あの…」

 また会いたいからここを教えたの、と幸は聞こうとして、黙った。今の彼女にそんなことを言うのは野暮だった。
 なぜなら、彼女が見つめているのは、その写真の中にいる幸せな自分と大城の姿だと幸にはもうわかったから。

「いいわー。いい表情。ね」

「そうね。すごく素敵」

 凛花はしばらくうっとりとその2枚の写真を眺めていた。そして、しみじみ言った。

「カニオはね、本当、才能があるんですよ。すごいと思う。あの人は人に支えてもらって、食べさせてもらってやってく人。私には支えられないなと思ったんです。だから、恋愛感情じゃなくて、無理だと思ったから、あっさり忘れられたんですよね」

 幸はあっけに取られたように頷いた。彼女は今、幸せなのだ。だからそんなふうにおおらかに構えられるのだ。つくづく、大城との結婚が良かったのである。

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