岡部恭仁子が初めてバイトにやってくるという朝、幸は参鶏湯を仕込んだ。寒い日にはあったまるし、一皿に鶏肉、餅米、ねぎと入っているから栄養的にバランスも良い。何よりも、サービスもさほど難しくはない。
さらに言えば、元町には韓国料理の店がないのだ。少し歩けば中華街があり、元町にも何軒か、中華の店はあるのだが。洒落た感じで、少しマイルドなコリアンテイストの料理があるのはちょっと珍しいことだろう。
そういえば、岡部夫妻と佐伯洸がやってきた日も、ちょうどこの料理だった。出会いの参鶏湯は、新しい日々との出会いも連れてきてくれそうだ。
大きなグレーのストウブ鍋がコンロの上に載り、たっぷりのスープを温めているのは、なんとも大きな存在感があった。
それもまた、冬にはいいものだ。
「幸さん、よろしくお願いします」
初日ということで、岡部恭仁子には10時に来てもらうことにしていた。
現れた恭仁子は、黒いタートルネックのセーターにいつものデニムのスカート姿だった。
「私、あんまり洋服持ってなくて。これでいいですか」
「じゅうぶん。これ、つけてね」
幸は洗っておいてあった白いギャルソンエプロンを手渡した。キュッと腰紐をしめると、それらしい風情になった。
清潔に手を洗うこと、注文をメモでとること「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」は、笑顔で大きな声で言うこと。…
飲食店として当たり前のことを一つずつ伝えるのは、案外自分のためにもなると幸は思った。
人に教えるということは、自分を省みることなのである。
恭仁子は唇をキュッと結んで、はい、はいと聞いていた。笑顔のときだけではなく、そういうふうに唇を結んでもえくぼができた。
ふと、彼女から発する甘い香りに幸は気づいた。
「恭仁子さん、ちょっと香水強いかも」
「えっ」
恭仁子は自分の手首の内側に鼻を寄せ、クンクン嗅いで「つけすぎたかな」と不安げに幸を下から見た。
幸はその香りに憶えがあった。
「これ、ドルチェ・ヴィータ、よね? ディオールの」
恭仁子は目を見開いた。
「すごい。なんでわかるんですか。ずいぶん昔に、岡部が誕生日に買ってくれたんです。古すぎて恥ずかしいけど」
その甘すぎる香りは確かに今っぽくないと幸は思った。でもきっと、ずっと家にいた恭仁子は岡部の守りが欲しいのかもしれないと、少しいじらしかった。
幸は微笑んで言った。
「いいのいいの。でもつけるなら、頭の上にスプレーして、そこをくぐり抜けるくらいの感じでお願いしますね」
「なるほど。…勉強になるわ」
恭仁子は両方の手首をスカートでこすりながら、頷いた。