ゆっくり咲いた桜も葉桜になった。
ヒトサラカオル食堂は、年の春はことのほか忙しかった。すっかりコロナ禍のことも忘れてしまいそうなほどだ。でも盛田幸は、飲食店が自粛と言われた頃から「それが何か」という顔で通ってくれた常連客たちにはずっと感謝を忘れずにいた。
今日もそのうちのひとり、セルジュと吉田さんが現れた。
「やっぱり昼から飲むワインは美味しいな」
「もう暑い日もあるから、白はいっぱい冷やしとかないと」
幸はそう言って、土曜日の助っ人、恭仁子と微笑みあった。恭仁子はセルジュがお気に入りだった。身近にはいないタイプの洒落男で、女性にもジェントリー。そういえば、彼女の学生時代の恋人、佐伯洸もそんな男性だったと、幸は思った。
今日のセルジュはピンクの麻のシャツに、きちんとプレスがかかった白いパンツといういでたちだ。肩に生成のカーディガンがかかっている。
「セルジュさんは、いつもおしゃれですね」
恭仁子は他の客には決して口にしない褒め言葉を言った。彼女はどうやら、好きな人の前では饒舌になるというタイプらしい。
セルジュは嬉しそうに微笑んで言った。
「恭仁子さんも、どんどんおしゃれになっていきますね」
「本当ですか」
恭仁子は嬉しそうに微笑んだ。そうしてこの間、自分と幸をオバはん呼ばわりした、失礼な関西弁の客のことを思い出した。
「この間、すごい人が来たんですよ」
「すごい人って?」
「… あのね、幸さんと私のことをね…」
そう言いかけたとき、ドアのベルがカラカラと音を立てた。
「ういっす。待ち合わせ」
恭仁子はギョッとして肩を振るわせた。
噂をすればの、その男だったのである。
「おう。こっちこっち」
もっと驚いたことに、その男を手招きしたのはセルジュだった。雑誌編集長をいくつもやってきたセルジュの顔の広さは半端なかったのだ。
「い、いらっしゃいませ」
恭仁子は固まった。セルジュとこの男にどんな接点があったというのだろう。
「いらっしゃいませ」
幸はそんな恭仁子の傍らで、二度目の客に極上の微笑みを投げかけた。
男は今日は、ラッパーのようなブカブカの黒Tシャツ姿だったが、やはり肩からあのケリー型のボディバッグをおろした。
「セルジュさん、お知り合いなんですね」
引きつった笑顔で尋ねる恭仁子に、セルジュは当たり前のように言った。
「うん。彼はもともと大阪だけど、東京でもいくつか飲食をやっていてね」
「藤原言います。こないだはどうも」
吉田はバッグからボッテガの名刺入れを出し、大きな指で器用に1枚抜き取ると、幸に差し出した。
「代表取締役 藤原剛太郎」
「藤原さん…」
「ママさん、昔、キタに居はった有名なママさんでしょ。ええと…」
「いいですいいです、もう、昔のことは」
幸は穏やかに話を変えようとしたが、内心、どこで誰と誰がつながっているかわからないと、ヒヤヒヤしていた。別に悪いことなど何もしていないのに。
彼女にとって大阪の過去は、ところどころ糸が飛び出た古いカシミヤのセーターのようなものだったのかもしれない。