そこへ、そおっと扉を開けて、しばらく中を伺う顔があった。
幸はめざとく気づき、走り寄った。
「凛花ちゃん!」
大きくなってきた、お腹を扉で隠すようにして、彼女はニコニコ笑っていた。
「入ってー。お腹空いていない?」
凛花は「いいですか」、と言いながらも、ゆっくり体の向きを変えて入ってきた。
「おお凛花ちゃん。元気そうだねえ」
「セルジュさーん」
二人はハイタッチして、凛花はセルジュの隣に座った。
藤原は急に妊婦が現れて一瞬どぎまぎしたが、太い眉の下の目を細めて愛想笑いをしていた。思えば、この間一緒に来た彼の娘は、凛花より少し年下だろう。
幸はお酒を飲めない凛花のために、とっておきのジュースを抜栓した。
「これね、宮崎果汁というところのグアバジュース。宮崎の自家農園で、グアバからつくっているんだって」
「いただきまーす。… わあ。桃みたい」
トロッとした優しい甘みのジュースは、確かに桃のネクターを思い出させた。彼女が美味しそうにそれを飲むのを、男性二人はちらちらと見ていた。
「お二人も、ひとくちずつ、お味見、どうですか」
幸はリキュールのグラスにひと口ずつジュースを注いだ。セルジュと藤原は嬉しそうにひと口飲むと、顔を輝かせた。
「うまいね」
「なんかあれやね、確かに桃やわ。子どものころ飲んだ、桃のネクター。あれやわ。好きやったけど、いっつも足らんなーと思ってた」
幸は、この人にもその人にも、子どもの頃があったんだなとちょっとほっこりした。
「凛花ちゃん、何か作ろうか」
「わーい。幸さん、今日は何を仕込んでます」
バイトしたこともある凛花は店の成り立ちをよくわかっている。その日、幸が何か仕込んでいるものを食べるのが一番いい、と。
「今日はね、ハンバーグがある。あと、いつものボロネーゼとか、グラタン、トマトソース、オイルベースのパスタ。…」
「ハンバーグ!」
3人が声を揃えて言った。
幸はハンバーグには、あえてあまり香辛料を使わない。使うとしたら、ほんのちょっぴりのナツメグぐらいだ。妊婦でも、そのぐらいなら大丈夫だろうという微量。
合い挽き肉に対して、さらに牛肉を全体の3分の1ほど足したものに、塩とテーブル胡椒を少々入れ、混ぜる。玉ねぎのみじん切りをちょっぴりの塩で炒めたもの、牛乳に浸したパン粉、卵液を入れてさらに混ぜる。
それを焼く。真ん中を凹ませて、しっかり焦げ目をつけて、なかまで火を通す。
それだけの単純なものだが、それが一番、万人に受けるのだった。
なぜならそれは、おそらく多くの人が家庭で子どものときから食べる味だからだろう。
いつもなら、ソースは肉汁の出たフライパンに赤ワインとケチャップ、中濃ソースを混ぜてつくるところだが、あえて今日はトマトケチャップだけで食べてもらおうと思った。
付け合わせは、トマトと新キャベツの千切りに、ウスターソース。
「なんや、懐かしいな」
「うん。いいね」
セルジュと藤原は、ビールを頼み、それをつまみに飲み始めた。
凛花はお皿を両手でもって、焼けたハンバーグの匂いをしみじみ味わった。そしてお腹を触りながら、言った。
「これがハンバーグだよ。お母さんも、負けずにつくるからね」
藤原はその言葉に、セルジュの向こうにいる凛花に問いかけた。
「もうわかってますの、男か女か」
凛花は悪びれず、頷いた。
「男の子です」
「おおおー」
「それは今、その子がハンバーグ食べたい、って思たんですわ」
「え、私じゃなくて?」
「そうそう、お腹のなかの赤ちゃんが食べたいものが食べとうなるらしいですよ」
「へーえ。そうなんだ。でもなんかわかります。私、独身時代はそんなに肉食じゃなかったから」
「え?」
別に深い意味があったわけではなかったが、幸の「え?」に「そういう意味じゃなくて」と凛花が言い出し、みんなが笑った。
恭仁子はその様子を見ながら、少しずつ藤原という男への印象が変わっていくことを感じていた。