目覚めると夕刻だった。5時間はぐっすり寝ていたことになる。朝よりずいぶん楽になったが、今日は恭仁子に店を任せることにした。
しかし、任せる、というのはなかなか気が気ではないことでもあった。
すぐにスマホを手に取ってしまう。いやいや、電話してお客さんがいたら、よくない。何か困ったことがあったら恭仁子からかけてくるだろう。
…電話は鳴らない。
うまくやっているんだろうか。ということは、自分はもはやそんなに必要な存在でもないのかもしれない、とつまらないことさえ考えてしまう。
これまで必死に生きてきたけれど、この先、どうなるんだろう。そんなことをふと考えてしまう。
忙しく生きてきた人間は、暇になるとろくなことを考えない。
しかし、たまの風邪は幸をそのネガティブ沼へ引き摺り込んだ。
このまま死んじゃったらどうしよう。
いや、死ぬならまだいい。
大きな病気をしたり、大きな怪我をしたら、例えばそれで後遺症が残って店を続けられなくなったら。…
どんよりしてしまう。目の前のすべてがぐにゃぐにゃと溶けて、グレーのスープの中にいるような錯覚だ。
ああ。ダメだ。
寝よう。
これまでの人生の教訓から、とにかく眠ることなのだ。ぐっすり眠り、身体が元気になれば、心という器はまた磨かれてそこにのる。
そこへ、恭仁子から電話が鳴った。
「幸さん、具合どうですか」
「ああ、熱はもう下がったみたい。明日は大丈夫だと思うわ」
「無理しないでください。親衛隊も心配してますよ…」
電話の声が男性になった。
「もしもし… Allô」
フランス語でわかった。
「ああ、セルジュさん」
「はい。大丈夫? あったかくしてよく寝てくださいよ。ホットワインをつくりにいきましょうか」
「あはは。ありがとうございます。風邪をうつしちゃいけないから、自分でつくりますよ」
「残念。ちょっと代わるね」
「もしもし、吉田です」
「あ、吉田さん」
「せっかく妻の目を盗んで土曜に来たのになあ」
「恭仁子さんがいるでしょう」
「それはそうだけど、やっぱりねえ。…ゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
常連客が代わる代わる電話に出てきては、お見舞いの言葉をくれた。
その全部が、当たり前の言葉だけれど、きらきら輝いていた。幸にとってはどんな薬よりも効いたのだった。
日曜日の朝、幸はすっきりと目覚めた。我ながらすごい回復力だと、自分を褒めた。
朝風呂をして、粥を煮て、梅干しで食べた。番茶を入れ、さて、と、気合を入れて化粧をする。
化粧をすると、ガソリンを入れた車のような気分になる。それもポルシェになったような気分である。
リップラインを取り、薄赤い口紅を塗って、一度ティッシュオフする。そこへ、ふっくらする効果のあるディオールのグロスをかける。
オードトワレはセルジュルタンスの「ラフィーユドゥベルラン」を手に取った。華やかな薔薇らしい香りにきりりとペッパーがしのぶ。すっと首の後ろを伸ばしたくなる香りだ。見上げたところに2振りして、その下に立って、3秒。人前へと誘う香りが、自分に降りてくる。それが、自分のエンジンだ。
さて、今日は何を作ろうか。寒いから、鱈の小鍋仕立てなどいいかもしれない。そろそろ柚子も安くなってきたから、鰤の柚庵焼きも仕込んでおこう。焼きうどんを食べたい人もいるかもしれないな。
…そんなことを考えながら、スーパーで買い出しをし、表に出た。
北風が冷たい。
思わず、荷物を下ろして、たまご色の大きなカシミアのストールを頭からかけて真知子巻きにする。真知子巻きと言ったところで、多分もうわかる人は少ないんだろうなと思いながら。
店に着くと暖房をつけ、一本、お香に火をつける。
今日はクリスマスの香り。オレンジとシナモン。たなびく煙がつれてくるのは、昨年や一昨年の思い出だ。
佐伯洸がつくってくれた、タジン。良介と二人で弾いてくれたあの美しいチェロの音色。大城サンが来るかとドキドキしている凛花と飲んだカシスティー。彼が現れたときの彼女の白い花が咲いたような笑顔。
ここ3年は本当にいろんなことがあって、ハラハラすることすら楽しかった。
当たり前のような毎日の、なんと輝いていることか。なんとありがたいことか。
そうなのだ。やっぱり、当たり前が幸せなのだ。
「おはようございます。幸さん、もう大丈夫なんですか」
恭仁子が現れた。彼女もずいぶん垢抜けて、ネイビーのVネックのセーターに、細い金のネックレスの首筋がすっきりしていた。
「恭仁子さん、おしゃれになったよね」
「バイトしてますから」
小さく舌を出して、早速テーブルを拭き始めた。
そこへ「ごめんください」と声がした。
