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  • 第35話 本日のお客様への料理『酒粕入り、白子と里芋のグラタン』

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🥂Glass 2

 目覚めると夕刻だった。5時間はぐっすり寝ていたことになる。朝よりずいぶん楽になったが、今日は恭仁子に店を任せることにした。
 しかし、任せる、というのはなかなか気が気ではないことでもあった。
 すぐにスマホを手に取ってしまう。いやいや、電話してお客さんがいたら、よくない。何か困ったことがあったら恭仁子からかけてくるだろう。
 …電話は鳴らない。
 うまくやっているんだろうか。ということは、自分はもはやそんなに必要な存在でもないのかもしれない、とつまらないことさえ考えてしまう。
 これまで必死に生きてきたけれど、この先、どうなるんだろう。そんなことをふと考えてしまう。
 忙しく生きてきた人間は、暇になるとろくなことを考えない。
 しかし、たまの風邪は幸をそのネガティブ沼へ引き摺り込んだ。
 このまま死んじゃったらどうしよう。
 いや、死ぬならまだいい。
 大きな病気をしたり、大きな怪我をしたら、例えばそれで後遺症が残って店を続けられなくなったら。…
 どんよりしてしまう。目の前のすべてがぐにゃぐにゃと溶けて、グレーのスープの中にいるような錯覚だ。
 ああ。ダメだ。
 寝よう。
 これまでの人生の教訓から、とにかく眠ることなのだ。ぐっすり眠り、身体が元気になれば、心という器はまた磨かれてそこにのる。
 そこへ、恭仁子から電話が鳴った。

「幸さん、具合どうですか」

「ああ、熱はもう下がったみたい。明日は大丈夫だと思うわ」

「無理しないでください。親衛隊も心配してますよ…」

 電話の声が男性になった。

「もしもし… Allô」

 フランス語でわかった。

「ああ、セルジュさん」

「はい。大丈夫? あったかくしてよく寝てくださいよ。ホットワインをつくりにいきましょうか」

「あはは。ありがとうございます。風邪をうつしちゃいけないから、自分でつくりますよ」

「残念。ちょっと代わるね」

「もしもし、吉田です」

「あ、吉田さん」

「せっかく妻の目を盗んで土曜に来たのになあ」

「恭仁子さんがいるでしょう」

「それはそうだけど、やっぱりねえ。…ゆっくり休んでね」

「ありがとうございます」

 常連客が代わる代わる電話に出てきては、お見舞いの言葉をくれた。

 その全部が、当たり前の言葉だけれど、きらきら輝いていた。幸にとってはどんな薬よりも効いたのだった。

🥂Glass 3

 日曜日の朝、幸はすっきりと目覚めた。我ながらすごい回復力だと、自分を褒めた。
 朝風呂をして、粥を煮て、梅干しで食べた。番茶を入れ、さて、と、気合を入れて化粧をする。
 化粧をすると、ガソリンを入れた車のような気分になる。それもポルシェになったような気分である。
 リップラインを取り、薄赤い口紅を塗って、一度ティッシュオフする。そこへ、ふっくらする効果のあるディオールのグロスをかける。
 オードトワレはセルジュルタンスの「ラフィーユドゥベルラン」を手に取った。華やかな薔薇らしい香りにきりりとペッパーがしのぶ。すっと首の後ろを伸ばしたくなる香りだ。見上げたところに2振りして、その下に立って、3秒。人前へと誘う香りが、自分に降りてくる。それが、自分のエンジンだ。

 さて、今日は何を作ろうか。寒いから、鱈の小鍋仕立てなどいいかもしれない。そろそろ柚子も安くなってきたから、鰤の柚庵焼きも仕込んでおこう。焼きうどんを食べたい人もいるかもしれないな。
 …そんなことを考えながら、スーパーで買い出しをし、表に出た。
 北風が冷たい。
 思わず、荷物を下ろして、たまご色の大きなカシミアのストールを頭からかけて真知子巻きにする。真知子巻きと言ったところで、多分もうわかる人は少ないんだろうなと思いながら。

 店に着くと暖房をつけ、一本、お香に火をつける。
 今日はクリスマスの香り。オレンジとシナモン。たなびく煙がつれてくるのは、昨年や一昨年の思い出だ。
 佐伯洸がつくってくれた、タジン。良介と二人で弾いてくれたあの美しいチェロの音色。大城サンが来るかとドキドキしている凛花と飲んだカシスティー。彼が現れたときの彼女の白い花が咲いたような笑顔。
 ここ3年は本当にいろんなことがあって、ハラハラすることすら楽しかった。
 当たり前のような毎日の、なんと輝いていることか。なんとありがたいことか。
 そうなのだ。やっぱり、当たり前が幸せなのだ。

「おはようございます。幸さん、もう大丈夫なんですか」

 恭仁子が現れた。彼女もずいぶん垢抜けて、ネイビーのVネックのセーターに、細い金のネックレスの首筋がすっきりしていた。

「恭仁子さん、おしゃれになったよね」

「バイトしてますから」

 小さく舌を出して、早速テーブルを拭き始めた。

 そこへ「ごめんください」と声がした。

第35話 本日のお客様への料理『酒粕入り、白子と里芋のグラタン』

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