《2》
有紗が勝瀬と出会ったのは、10年前の神戸だ。震災で有紗たちの家が焼けて、その後、何かと苦労した父親が亡くなった年のことだった。
その頃、神戸の街はもう外見上、すっかり元に戻っていたように見えたけれど、昔ながらの各国料理の老舗レストランや、個人商店は減ってしまった。全国規模のどこも同じチェーン店が軒を連ねた。
震災の頃、中学生だった有紗はフランスに留学する夢をもっていたが、それは叶わぬものとなった。それでも公立高校から製菓学校を出て、フランス料理店、スィーツ専門店までを展開する店に就職し、パティシエとして働いた。
勝瀬はその店が3号店を出すときに、ホテルから引き抜かれてシェフとして入ってきた。38歳の既婚者で、2歳の娘もいた。
初めて彼が入ってきて、みんなの前で挨拶したときのことを、有紗は今でもはっきりと思い出せる。
緊張感のある引き締まった頰。太い眉の下の黒目が強かった。
「勝瀬洋三です。よろしくお願いします」
真っ白なコック帽の下にある眉と目に有紗は胸を射抜かれたような気がした。
勝瀬も、しばらく有紗から目が離せなかった。色白でか細いのに、芯の強そうな、茶色い目に釘付けになった。
二人は恋に落ちたものの、長いこと見つめあうだけだった。有紗は不倫は嫌だった。勝瀬も、妻とはあまりうまくいっていなかったが、浮気をするだけの時間も金銭的余裕もないと自分をいさめていた。真面目な男だった。
ところが、ある年のバレンタインの前の頃のこと。チョコレート商戦でパティシエだけでは間に合わず、勝瀬も手伝いにやってきた夜があった。
有紗はもう数日ほとんど寝ていなくて、それでも必死にチョコレートを作り続けていた。明後日はバレンタイン。最後の踏ん張りだった。
なんとか個数が出来上がり、明け方、調理場で二人きりになった。
「因果な商売やな」
立ったまま窓に向い、煙草をふかしながら、ふと、勝瀬がそんなことを言った。
「なんでですか」
勝瀬は、窓の外のまだほの暗い空をふーっと見て言った。
「嫁はんな、大きいチョコレートを、二つ隠しとおるねん」
「…」
有紗はすぐに察したが、確かめる言葉を見つけられなかった。
勝瀬はぽつりぽつりと話し始めた。
「オレにひとつ。あとひとつは、よその男や」
「そんな… 義理チョコかもしれんやないですか」
「義理であんな大きいチョコレートは渡さんやろ。いや、オレがもらう方が義理チョコなんかもしれんな」
「…」
「相手もわかってる。PTAで知りおうたみたいでな。しょっちゅう幹部会やって明け方まで帰ってきよらん。バレバレや」
有紗はたまらなくなって、勝瀬の背中に回ると、そっとおでこをくっつけた。