《2》
2月に入ってすぐ、麻貴は翔平とちょっともめていた。きっかけは、翔平がインフルエンザになったことだった。
なんとなく1週間に1回はどちらかの家に泊まるようになっていたが、その日は18時過ぎに翔平から断りのメールが来た。
「すみません。熱が出て、ひょっとしたらインフルエンザかもしれません。今日は来ないほうがいいです。あしからず」
翔平はどうしてだか、ずっと「ですます」だ。会話も、メールも。そして、どうして男子というのは、必要なことしか書かないのだろう。
いつもならそういうもんだと思えるのに、今日の麻貴は心をざわつかせた。
熱は?食欲は?… 気になって仕方がない。
おかしな憶測までしたくなった。まさか、誰か他の女性が、とか。
ひとつ小さく深呼吸して、メールを打つ。
「大丈夫ですか?」
そう書いて、消してしまった。小さいバッグにスマホと鍵と財布とリップクリームを入れて、気がつけば電車に乗っていた。
麻貴の住んでいる武蔵小山から、翔平の住んでいる溝の口までは、30分はかからない。東急目黒線で大岡山まで出て、大井町線に乗り換えるだけだ。
電車を乗り換え、もう一度彼からのメールを見た。
「来ないほうがいい」という言葉だけ、拡大されているように見えた。麻貴はたまらなく不安になった。何をしているんだろう。望まれていないのに。でも、高熱で動けなくなっている翔平を想像すると、いやいや自分の行動は正しいのだと思い直した。 とりあえず、何か届ければいい。
溝の口の駅は大きい。ベッドタウンというのにふさわしい町だ。NOCTYという、ダジャレのきいたショッピングモールにつながる高架の上で、2組ばかり、ギターをかきならしてアマチュア・ミュージシャンが演奏していた。寒空の下、立ち止まる人はいない。ハーモニカの音も聞こえる。翔平はこんな路上演奏をしたことがあるのだろうか、と、麻貴は思った。そして気づいた。そんなには知らないのだ、彼のことを。
何度か、朝まで過ごしただけ。一度だけ、仕事への思いを聞いただけ。
ひょっとしたら、自分はそんなに大事な存在ではないのかもしれない。
そんな気持ちを振り切るように、麻貴は翔平とよく行くミスタードーナッツで、彼の好きなフレンチクルーラーを買い、ポカリスエットと缶コーヒーを買って、彼のマンションに向かった。ドーナッツの甘い匂いが、一緒にいるときの穏やかな気持ちを少し思い出させてくれた。
まっすぐに歩き、角を曲がり、二つ曲がったところにあるマンションへ。エレベーターで3階に上がり、インターホンを押す。
出ない。もう一度、押す。
… いない。
そうわかった瞬間に、麻貴はすーっと後頭部から背中にかけて冷たくなるような気がした。
インフルって嘘なの。
しばらく、どうしていいかわからなかった。
唇をかみ、頭をあげると、あ、と思い当たった。そして、スマホを取り出し、翔平のライブ・スケジュールをチェックした。
赤坂の小さなライブハウスの名前があった。ヴォーカルとのデュオのようだ。麻貴はひょっとしたら、と思いながらも、そこへ行ってみることにした。