《3》
比較的新しそうなライブハウスは、赤坂と言ってもほぼ乃木坂に近いところにあった。
ビルの階段を降りていくと、懐かしい、語りかけるような音色が聴こえてきた。
やっぱり。麻貴は嬉しいような、まだ不安なような気持ちで、扉を開けた。
青いドレスを着たボーカリストの、開いた胸元が目に飛び込んできた。何歳ぐらいなのだろう。自分よりは確実に年上な気がした。
そして傍らのピアノの前に、マスクをかけて赤い顔をした翔平がいた。
麻貴はほっとするやら、病状が気になるやら、また複雑な気持ちで、店員の案内に従って、後ろのほうの席についた。
おそらくその席は、翔平からは見えないかもしれなかった。
ボーカリストは低い、ややしゃがれた、でも厚みのある声で歌っていた。
Smoke gets in your eyes。
そして歌い終わると、その歌の歌詞について語り始めた。
「誰もが言った。いつかわかる。恋は人を盲目にする。心が燃え盛っているときは、煙で目が見えなくなっていることを、あなたも理解しなくては、って。そしてまた、愛の炎が消えたあとは、煙が目にしみる… つまり、この歌は、煙草のことを歌っているわけではなくて、愛の炎のことを歌っているんですよね」
麻貴ははっとした。見えなくなっているのは、私かもしれない。私ばかりが一生懸命なのかもしれない。でも、翔平の姿を見てしまうと、そこから立ち去ることもできなかった。
今日の彼のピアノは風邪の熱を帯びてか、いつもよりも熱い気がした。高音から低音へ。低音から高音へ。駆け上がったり、駆け降りしながら、時にはきらきらと星屑を散らすように聞こえる。左手は深いところをしっかりと支え、右手は数少なく、最適な一音を選び取る。マスクの上にメガネが載り、眉毛は時々歪み、時々開きながら、 それに合わせて音が泣いたり笑ったりする。
演奏が終わって、テーブルの上にレシートが置かれ始めた頃、ようやく翔平は麻貴がいることに気づいた。
照れくさそうに手を降ったので、怒ってはいないようだった。
「大丈夫なの」
怒ったように言ったのは麻貴のほうだった。翔平は彼女の目を見ないで言った。
「すみません。初めての店で初めてのボーカルさんで、どうしても弾きたかったんで」
「熱は」
「なんとか」
麻貴はうつむいてフレンチクルーラーとポカリスエットを渡し、さっさと店を出てきてしまった。