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    第8話 『麻貴の決断』

《3》

 比較的新しそうなライブハウスは、赤坂と言ってもほぼ乃木坂に近いところにあった。

 ビルの階段を降りていくと、懐かしい、語りかけるような音色が聴こえてきた。

 やっぱり。麻貴は嬉しいような、まだ不安なような気持ちで、扉を開けた。

 青いドレスを着たボーカリストの、開いた胸元が目に飛び込んできた。何歳ぐらいなのだろう。自分よりは確実に年上な気がした。

 そして傍らのピアノの前に、マスクをかけて赤い顔をした翔平がいた。

 麻貴はほっとするやら、病状が気になるやら、また複雑な気持ちで、店員の案内に従って、後ろのほうの席についた。

 おそらくその席は、翔平からは見えないかもしれなかった。

 ボーカリストは低い、ややしゃがれた、でも厚みのある声で歌っていた。

 Smoke gets in your eyes。

 そして歌い終わると、その歌の歌詞について語り始めた。

「誰もが言った。いつかわかる。恋は人を盲目にする。心が燃え盛っているときは、煙で目が見えなくなっていることを、あなたも理解しなくては、って。そしてまた、愛の炎が消えたあとは、煙が目にしみる… つまり、この歌は、煙草のことを歌っているわけではなくて、愛の炎のことを歌っているんですよね」

 麻貴ははっとした。見えなくなっているのは、私かもしれない。私ばかりが一生懸命なのかもしれない。でも、翔平の姿を見てしまうと、そこから立ち去ることもできなかった。

 今日の彼のピアノは風邪の熱を帯びてか、いつもよりも熱い気がした。高音から低音へ。低音から高音へ。駆け上がったり、駆け降りしながら、時にはきらきらと星屑を散らすように聞こえる。左手は深いところをしっかりと支え、右手は数少なく、最適な一音を選び取る。マスクの上にメガネが載り、眉毛は時々歪み、時々開きながら、 それに合わせて音が泣いたり笑ったりする。

 演奏が終わって、テーブルの上にレシートが置かれ始めた頃、ようやく翔平は麻貴がいることに気づいた。
 照れくさそうに手を降ったので、怒ってはいないようだった。

「大丈夫なの」

 怒ったように言ったのは麻貴のほうだった。翔平は彼女の目を見ないで言った。

「すみません。初めての店で初めてのボーカルさんで、どうしても弾きたかったんで」

「熱は」

「なんとか」

 麻貴はうつむいてフレンチクルーラーとポカリスエットを渡し、さっさと店を出てきてしまった。

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