アニメだけではなく、1960年代はバラエティ番組の威力が強まった時代だった。なかでも5歳の私が夢中になったのは子ども向けの『ロンパールーム』ではなく、同じうつみみどりも出ている『巨泉✖前武のゲバゲバ90分』だった。
その後の『どっきりカメラ』など様々な番組の原点になったパロディや、ちょっとHな大人の大真面目なショートコントが延々と続く。
さっき調べたら構成作家に井上ひさしさんの名前があったのだから、それはそれは才能のある人たちが大真面目に遊んでいたに違いない。
幼稚園児の私は前田武彦、通称「前武」のファンになり、大人たちから「変わった子だ」と言われた。
母方の祖父母の町工場で日がな暮らし、大人たちの関係性を見上げて過ごした私にとって『…ゲバゲバ90分』は、その日常とつながる面白さをもっていたのだろう。
理不尽や下心や…そんな詳細はわからなくても「割り切れないものを笑う」ことの爽快感。
確か、土曜の夜にやっていたのではないかと思う。
「もう、早く寝なあかんわ」
そう、親に寝床へ追い込まれるまで、私は『ゲバゲバ90分』に見入っていた。
そしてその流れで前武さんと芳村真理さんが司会をしていた『夜のヒットスタジオ』が大好きになった。
初期の『夜ヒット』には何かの歌の内容をモチーフにした「歌謡ドラマ」があり、歌手たちが寸劇をするのも嬉しかった。
私はひょっとしたら、すごくコントが好きなのかもしれない。どんな人の人生もコントのつながりでできているような、何かそういう把握の仕方をいまだにしているような気がする。
手塚アニメの一方で、横山光輝の描いた1966年の『魔法使いサリー』以降、魔法使いのヒロインものが続くこととなる。
1969年には赤塚不二夫の『秘密のアッコちゃん』が始まった。
アッコちゃんの赤塚不二夫は『おそ松くん』が大人気になり、その後『天才バカボン』を大ヒットさせるのだから、珍しい少女漫画だ。
よく考えると、同じ魔法使いでも、サリーちゃんには「魔法の国のお姫様」感があり、この世に降りてきても、やや上流感があった。アッコちゃんは中の上くらいの中流階級である。魔法を使える人が、地に降りてきた感があった。
アッコちゃんは、なんにでも変身できる魔法のコンパクトを手に入れただけなのである。
それは『ドラえもん』で、普通の男の子ののび太がドラえもんと一緒にいるようになってなんでもできるようになるのと少し似ている。
主人公は、普通の人なのである。
当時のおもちゃ屋さんではアッコちゃんの魔法のコンパクトが売れに売れていた。もちろん、私もいち早く買ってもらい、首から下げていた。
「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン。看護婦さんになーれー」
そんなことを言いながら「なんにも変わらんやん」と、現実を笑っていた。でも、そのコンパクトをもっているだけで、何かが変わるかもしれない、と思わせるものがあった。今日はなんになろう。そして、何かになった自分を想像する面白さ。
アニメのなかで主人公は、魔法という、万能の力を手に入れたようで、そこから起こるトラブルや、見なくていいものや、人の不条理を、受け止め、前向きに解決していく。
そこで私は「万能感の無力さ」を知った気がする。
欲望をすぐ叶えたところで、そこからまた渇望やトラブルや、悲しいことや苦しいことが起こる。
あの頃のアニメにはそういうリアリティがあった。