そんな幸せが続いた小2の9月のことだった。
ある日突然、終わる幸せというものがある。
Oくんが、父親の転勤で、東京へ行ってしまうというのである。
「東京って、どこ」
私は母に尋ねた。
「遠いとこや」
「ふうん。ほんなら、もう会われへんの」
「…そやなあ」
1972年のことだった。大阪の子どもにとって、あの頃の東京は、本当に遠かった。
「何か餞別をあげなあかんなあ」
「え、せんべいあげるの?」
母は笑った。
「お餞別。お別れのプレゼント」
何をあげたのか、全く思い出せない。親同士も仲が良かったので、家まで持っていった記憶がある。
そして、お返しに、Oくんは家にあったであろうどこかの温泉地のガラスに入った小さいお人形をくれた。割れないように1ダースの箱入りのトンボの鉛筆を、右と左にくっつけてあった。
鉛筆はHBだった。
その頃、1~2年生は2BかBの鉛筆を使うよう指示されていた。3年生になればHBを使うことを許されるのだった。
私は、Oくんのいない3年生になるんだなあと、寂しく思った。
担任のT先生は、あと1週間でOくんがいなくなるという学芸会に『Oくんさようなら』という呼びかけ劇を作った。
クラス全員が壇上に並び、下手にOくんが立った。
一人ずつが、Oくんとの交友関係を端的に感じさせるようなセリフを与えられた。
私がもらったセリフは「Oくんは、えくぼが可愛かったね」だった。
今思っても素晴らしい脚本だった。
Oくんは泣いてしまい、会場にやってきた保護者たちもすすり泣いた。私は泣けなかった。
なんで泣けなかったんだろう。Oくんがいなくなるという実感を、持つことができなかったのではないか。
それとも、子ども心に「仕方のないこと」があるのだとどこかで悟っていたのだろうか。
そういえば近所で仲良くしてもらっていたノリカズくんも、突然母親といなくなってしまった。「仲良くなると、みんな遠くへ行ってしまうのかな」と、私はふと思った。
Oくんがいなくなって、なんとなく寂しいとは思っていたが、そのうち忘れてしまった。
2学期が終わろうとする頃、ある時、T先生がニヤニヤして言った。
「Oくんがいなくなって森さんは寂しいな。もう、K君にしといたら?」
私は黙ってかぶりを振った。
再会したのは5〜6年前のことだ。
きっかけはSNSだった。名前は同じだし、タイムラインの投稿を見ていると、それとなく優しい人間だということが伝わってくる。
しかし、アイコンの写真は立派なおっちゃんである。面影があるかといえば、あるような気もするし、ないような気もした。
思い切ってメッセージをしてみると、まさにその人だった。
いっぺん、会ってみようか、という話になった。
金融系の仕事であるが、割とその日は早く上がれるというので、私たちは午後3時に天王寺で待ち合わせた。別に銭湯へ行くわけではないが、なぜかこの人は午後3時なんだなあと思うと、妙におかしかった。
私たちは太陽が燦々と降り注ぐなか、通天閣の下で串カツを食べ、ビールを飲んだ。安い串カツは油の匂いが濃かった。ソーセージとか、うずらの卵とか、こんなものまで揚げるんかというものまであった。
スマートボールをすると、私だけがガンガン入って、チョコレートをもらった。
商店街の衣料雑貨店にあった「大阪のおばちゃん豹柄セット」を見て、真顔で「買うたろか」と、Oくんは言った。
童心に戻る、とはこのことだろう。しかし話をしてみても、Oくんはほとんど憶えていないようだった。
「最後にさ、人形の置物と鉛筆、くれたやん?」
「え、何それ。ほんまに…」
あんなにくっきりしていたえくぼは、もう深く刻まれたシワのなかに呑み込まれていた。
思い出とはそんなふうに埋没してゆくものなのだろう。
仲良くなった人が遠くにいて、元気につつがなく過ごしている。
それだけでとても幸せなことだと、思える年頃に、私もなった。
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photo Keita Haginiwa
Hair&Make Takako Moteyama