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  • その19「Every time we say goodbye」

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⚫︎胸の梅干し

 がんが再発したのは、私が中1になった冬だったと思う。
 ある日、祖母と母がひそひそと話していた。

「梅干しくらいの大きさやねんて」

「なんで肺に」

「大腸から肺に転移することは多いらしいねん」

 私は、祖父の胸の奥にある梅干し状のものを想像した。梅干しくらいなら、とってしまったら治るんじゃないかな、と、希望的観測をもった。
 食卓に梅干しがあるのを見ると、嫌な気持ちがした。梅干しはたいてい、蓋つきの瀬戸物に入っていた。それが開けてあると、私はそおっと蓋をした。

 祖父がそれをとる手術をしたかどうか、あまり記憶がない。
 それからの記憶は、長いこと、八畳の仏間の万年床にいる祖父の姿だ。
 腰が痛い、といい、みんなが代わる代わる祖父の腰をさすった。

「なんでこんなに痛いんやろう。がんとちゃうか」

 ある日、祖父はそう言った。「違う違う、坐骨神経痛や」と、私たちは言った。医者にそう言うように言われていたのだった。
 私たち家族は、最後まで隠し通す気持ちだった。

「あーちゃん、ちょっとこっちきて新聞読んでくれへんか」

 祖父は私のことをあーちゃんと呼んだ。私はいいよ、と言って、その新聞を読んだ。なんのことはない、競艇の専門紙だった。
 選手の名前や出身地や、そんなことを一通り読み上げると、ふと祖父が言った。

「あーちゃんは、よう読めるんやな。えらいな。おおきに」

 私はその時初めて、勉強していてよかったと思った。中学入試の受験勉強はした。そのうちいい大学に入って、いいところへ就職して。…そんなことは全部、何か絵空事だった。
 何より大事なことは、こうして大事な人の役に立つ。そういうことなんだ。…その時、私ははっきりとそう思った。
 祖父はあの時、黒縁の老眼鏡をかけていたけれど、ひょっとしたら、あまり目も見えづらくなっていたのかもしれない。
 でも、それを確かめるのは怖かった。
 それから数日後、叔父と祖父と、その部屋で巨人ー阪神の試合をテレビで見ていた。
 試合は初めは阪神が負けていたが、6回だか7回だかに、チャンスが訪れた。
 巨人の遊撃手が立て続けにエラーをした。落としたボールを自分の足で蹴っ飛ばしてしまった。
 それを見て、叔父と祖父が大笑いをした。
 なぜか笑いが止まらないくらい笑っていた。
 私も笑った。叔父が祖父の肩を叩いて笑っていた。祖父は笑いすぎて、目尻に涙を溜めていた。
 こんなに笑ったら、病気が治るんじゃないかと私は思った。
 でもそんなに笑ったのは、それが最後になった。

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