がんが再発したのは、私が中1になった冬だったと思う。
ある日、祖母と母がひそひそと話していた。
「梅干しくらいの大きさやねんて」
「なんで肺に」
「大腸から肺に転移することは多いらしいねん」
私は、祖父の胸の奥にある梅干し状のものを想像した。梅干しくらいなら、とってしまったら治るんじゃないかな、と、希望的観測をもった。
食卓に梅干しがあるのを見ると、嫌な気持ちがした。梅干しはたいてい、蓋つきの瀬戸物に入っていた。それが開けてあると、私はそおっと蓋をした。
祖父がそれをとる手術をしたかどうか、あまり記憶がない。
それからの記憶は、長いこと、八畳の仏間の万年床にいる祖父の姿だ。
腰が痛い、といい、みんなが代わる代わる祖父の腰をさすった。
「なんでこんなに痛いんやろう。がんとちゃうか」
ある日、祖父はそう言った。「違う違う、坐骨神経痛や」と、私たちは言った。医者にそう言うように言われていたのだった。
私たち家族は、最後まで隠し通す気持ちだった。
「あーちゃん、ちょっとこっちきて新聞読んでくれへんか」
祖父は私のことをあーちゃんと呼んだ。私はいいよ、と言って、その新聞を読んだ。なんのことはない、競艇の専門紙だった。
選手の名前や出身地や、そんなことを一通り読み上げると、ふと祖父が言った。
「あーちゃんは、よう読めるんやな。えらいな。おおきに」
私はその時初めて、勉強していてよかったと思った。中学入試の受験勉強はした。そのうちいい大学に入って、いいところへ就職して。…そんなことは全部、何か絵空事だった。
何より大事なことは、こうして大事な人の役に立つ。そういうことなんだ。…その時、私ははっきりとそう思った。
祖父はあの時、黒縁の老眼鏡をかけていたけれど、ひょっとしたら、あまり目も見えづらくなっていたのかもしれない。
でも、それを確かめるのは怖かった。
それから数日後、叔父と祖父と、その部屋で巨人ー阪神の試合をテレビで見ていた。
試合は初めは阪神が負けていたが、6回だか7回だかに、チャンスが訪れた。
巨人の遊撃手が立て続けにエラーをした。落としたボールを自分の足で蹴っ飛ばしてしまった。
それを見て、叔父と祖父が大笑いをした。
なぜか笑いが止まらないくらい笑っていた。
私も笑った。叔父が祖父の肩を叩いて笑っていた。祖父は笑いすぎて、目尻に涙を溜めていた。
こんなに笑ったら、病気が治るんじゃないかと私は思った。
でもそんなに笑ったのは、それが最後になった。