ある夜、隣に寝ていた祖母が目を覚ますと、祖父はガーゼの浴衣のような寝巻きであぐらをかき、空を見ていたそうだ。
「どないしたん」
祖母が尋ねると、祖父は静かに言った。
「黒いものが仏壇のところから出てきて、フワーッとな、あのテレビの後ろに入りよった」
祖母は気持ちの悪いことを言うなと思ったそうだ。
ちょうどその頃、私はこんな夢を見た。
…祖父と、祖父の両親と、私で、お祭りの縁日に行くことになった。祖父の両親といえば、私の曽祖父母であるが、もちろんそんな人たちのことは実際は遺影でしか見たことがない。しかしその2人と祖父と私の4人なのである。
縁日なのに、ほとんど人がおらず、全てがモノクロームだった。うなぎ釣りの露店の主の顔も俯いていてよくわからなかった。
祖父ははしゃいでおり、うなぎを釣って、そのまま曽祖父母と一緒にどこかへ行くという。
私は3人を見送って、1人で家に帰ってきた。そこで目が覚めた。
祖父が亡くなったのは、それから2ヶ月後くらいのことだった。
7月2日。それは中2の期末テストの直前だった。
夕方の3時半頃だったと思う。その時間に私が祖父母の家にいたという事は、土曜日だったのだろうか。
黒電話が鳴り、それをとってうん、うん、と言っていた叔母が畳の上に泣き崩れた。
「死んだって」
最期は意識もなく、眠るように逝ったらしかった。
やがて、泣きじゃくりながら祖母が長男である叔父に抱えられるように帰ってきた。
そんなに感情を表している祖母を見たのは初めてだった。
祖父の亡骸はまず家に運ばれた。
初めて見る、肉親の死だった。
祖父の顔は穏やかだった。今にも「嘘や」と、起き上がりそうだった。
小さい頃、寝たふりをしてつま先の2本の指でそばにいる弟の脹脛をつねった「エビかに」をやるんじゃないかと思ったりした。やってほしかった。
不思議なもので、家族は葬式の段取りを始めると、泣かなくなった。
人はしきたりで、感情を制するのだ。
亡骸はその後、家のすぐそばの西光寺に運ばれた。
「得意先やら、この辺の人やらで、どれくらいの人数やろうなあ」
「200人は来るやろ」
「ちょっと派手にせんとなあ」
叔父はそう言い、葬儀屋のサンプル写真を見ながら、青竹で組み上げられ、籠にお餅がいっぱい入った、見たこともないような立派な祭壇を指さした。
誰も贅沢だとは言わなかった。
その証拠に、本当に大変な行列が寺を囲んだ。見たこともないような人がわらわらやって来て、本当に悲しそうにしていた。
「よう遊んだなあ」「色んなとこでなあ」と、遠縁の人たちがヒソヒソ話していた。
中2の私は、母親が子どもの頃に使っていたらしい、赤い小さな数珠を貸してもらって、手を合わせた。
焼香も初めてした。たちのぼる煙は、いつもの仏壇にあった毎日香とはまた違う、濃い、手に残るような香りがした。
ああ、祖父はもう亡くなったんだ、とその時、確かめた。
「最期のお別れの時間となりました…」
葬儀屋さんの社長が直々に泣きながら司会をしていた。本当に祖父のことをよく知っている人らしかった。
棺を開けると、あちこちから啜り泣きが聞こえた。
悲しみと、人は死ぬという現実と、たくさんの思い出とで、私は思考が溢れて止まっていた。
空からもしとしとと小雨が降っていた。
「涙雨や」
と、誰かが言った。
ざあざあ降るわけではなく、しとしとの雨は、本当に涙のようだった。
いつか、祖母も逝ってしまう。いつか、いつか、人は死ぬ。
出会ったら、別れがくる。大好きで大事な人ほど、別れは辛いんだ。
そんなことをぼんやり考えていた。
太宰治の小説に書いてあった「さよならだけが人生だ」という言葉を、恨めしく浮かべながら。
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photo Keita Haginiwa
Hair&Make Takako Moteyama