天神祭の日は、なぜか西瓜を食べると決まっていた。
母方の祖父母の街工場でもそうだったし、父も会社で食べたと言っていた。
なんでも、梅雨明けが終わり、その頃の西瓜が一番甘いのだという。
今やこれだけ異常気象になってしまったから、その通説が正しいかどうかはもうわからないが、確かに当時はおいしかった。
昭和40年代の関西では、兵庫の神鍋や遠くは鳥取あたりからも来ていたと思う。今のように東京に熊本から西瓜が大量に来ていることはなかったのではあるまいか。まだまだ輸送費も高く、運ぶのに困難な場所もあっただろう。
そして今ほど様々な全国のスイーツが手に入らない時代である。
西瓜はスイーツのようなワクワク感を我々にくれた。
切られる前の西瓜は、仏前にビニールの紐がかかったまま供えられていた。
大きなスイカを撫で撫でしては、楽しみを膨らませる。
夕方になると、祖母はまな板の上にそれをどっこいしょと載せ、菜切り包丁をおっ立てて、豪快に切った。
2分の1に。さらに4分の1にし、それを今度は横に3〜4センチの厚さに切る。
真っ赤な果肉に黒い種が艶々と光っている。
真ん中のいいところを食べるのは、祖父と叔父と、私だった。
祖母はいつも端っこを、その代わり分厚く切って、スプーンですくって食べていた。
「種取らな、盲腸になるで。腸の先っちょのところへ種が溜まると、あかんのや」
祖父だか祖母だかが、訳知り顔にそんなことを言った。私はまた入院していたクラスメイトを思い出し、丁寧に種をとって食べた。
母の弟である叔父が、縁側に座って口から種を飛ばしていた。とても楽しそうだったので、真似をしたら、祖母に「女の子はそんなんせえへんの」と諌められた。
だいたい、ペッとやっても、叔父ほど飛ばなかった。女ってつまらんな、と私は思った。
弟は種飛ばしに目もくれず、ひたすら食べていた。その後、食べすぎてお腹を壊した。置き薬に男の子が後ろ手を組んでいるイラストの腹痛の薬があった。
まだうまく言葉で説明できない弟は、後ろ手を組んで「こんな薬ちょうだい」と言った。
みんなが笑った。
家族や工員さんたちみんなで西瓜を食べることは、ちょっとしたイベントだった。
なぜ西瓜があんなに盛り上がったのか考えるに、あの果実の大きさは意味があると思う。
漁でも狩でも、大物を仕留めれば、みんなで分かち合って食べる。その感じが、本能的に私たちの中には残っていて、きっとワクワクするのではないかと思うのである。
それにその日は天神祭という高揚感もあった。
船渡御を見に行くこともしばしばあったが、テレビでそれを見るようになっても、やはり天神祭というのは夏の沸点のように思えた。