中学、高校と祖母の作った服から遠ざかりがちだった私が、救いを求めたのは大学に入った頃だった。
神戸女学院は私服で通う大学だった。なんでも付属の中高から私服通学だそうで、下から上がってきた学生たちは化粧もファッションも完成された人が多かった。
規則の厳しいよその中高から来た私にとって、彼女たちは眩しいくらい大人だった。
当時、ファッション業界はDCブランドブームだった。私の高校時代にananが週刊化され、モデルの甲田益也子さんやくればやし美子さんが活躍されていた。お二人とも顔が小さく、すらりとして、まるで人形のようだった。
「チープシック」特集では、甲田さんが着たTシャツやホワイトデニムのGジャンを真似して買ったりしていたが、DCブランドの服はとても値段が高かった。
特にくればやしさんがふわふわのソバージュのロングヘアで着ていたピンクハウスのワンピースは5万円前後でとても手が出なかった。
学費も高いのに、それを買ってほしいとはとても言えず、時々、阪急百貨店の別館にできていたDCブランドストリートへ行っては、それを見てため息をついて帰ってきた。
あるとき、祖母にananを見せると、祖母はこともなげに言った。
「こんな服、直線裁ちやがな。簡単や。買わんでも、作ったらええ」
「え。作れるの」
別の雑誌を探すと、まだ当時は洋裁雑誌がいくつかあった。そこに、えせピンクハウスのワンピースの作り方が載っていた。生地屋さんには、厳密に言うと違うのだけれど、それ風のレーヨンの布がたくさん売られていた。
それっぽい黒字に赤のリボン柄の生地を選び、祖母の家で、一緒に作ることになった。
一緒に作るといっても、ミシンはほとんど祖母がやってくれた。私は裾や袖口など、針でくける部分だけを教えてもらってやった。
出来上がると、本当にピンクハウスみたいだった。
「おばあちゃん、ありがとう。ありがとう」
私はそのワンピースに偽物のパールのロングネックレスをジャラジャラつけ、赤いエナメルのぺたんこ靴を履いた。赤いモヘアのカーディガンは、アメリカ村の古着屋で、5,000円で調達した。
同じ型紙で、細かい白黒のギンガムチェックのワンピースを半袖で作り、白い襟もつけてもらった。
「お金かけんでも、なんぼでもおしゃれできる」
おばあちゃんは笑ってそう言った。
「勉強は嫌いだった」おばあちゃんだけれど、この人は賢かった。他人の悪口を言ったのも聞いたことがないし、いつも優しかった。人に与えることを自然にした。
服を作る、と言うのはオリジナリティを認識することでもあった。
人と同じではつまらない。自分は何が好きで、何が似合うのか。そういうことを知ることも、ファッションの大事な一部なのだと。
どんなに断捨離しても、そのワンピースだけは捨てられない。
もう着ることはないだろうけれど。
時にはそれを壁にかけて、お香をたいて、自分の心のなかに生きている祖母に話しかけてみるのである。
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Photo by Ari Hatsuzawa
Hair&make Junko Kishi
Styling Hitomi Ito