祖母は子どもの頃から、私の七五三には呉服屋で着物を仕立ててくれたり、夏には自分で浴衣を縫ってくれたりした。
子どもの着物は、一つ身、三ツ身、四つ身と大きくしていく。それぞれ2歳まで、2〜4歳まで、5〜12歳くらいまでという感じだろうか。
最後の四つ身は肩上げ、腰上げをだんだんほどいて大きくしていく。着物というのは実に合理的で、最大限長く着られるように考えられたものだと思う。
柄ゆきも、その体の大きさに応じて、少しずつ変わっていく。
特に浴衣は、その楽しさが存分に味わえた。
それまでは白地、サッカー生地の子供用の浴衣地から選んだのを、四つ身になると、大人と同じ「藍の地」を許された。
ちょうど私がそれを着始めた頃から、藍の地に白抜きの柄ではなく、色をつけた柄のものが出始めていたのだった。
ひまわり。あさがお。あじさい。花火。とんぼ。柄を見るだけで心が浮きたった。
着物を見にいくときは、いつも母だけでなく祖母が一緒だった。
「ちょうちょう、かわいい」
私が言うと、ちょっと嫌な顔をされた。
「ちょうちょうはあかん」
「なんで」
「早死にする」
それも言い伝えだったのか、何か祖母の経験だったのか、よくわからない。ただ、戦後、体の弱かった長女の和子を9歳で亡くしている祖母は、そういうジンクスを頑なに信じていた。
亡くなった子は「和子の姉ちゃん」と、いつも生きているように呼ばれていた。
生まれた頃はまだ景気も良かったのか、母とその人が七五三か何かで着飾られている写真を見たことがある。
「着物」は愛情の証であり、豊かな生活の証でも合った。
柄ゆきにも、いろんな思いが込められていた。
初めて四つ身を作ってもらったとき、私は「梅」の柄を選んだ。
「梅原の梅や」
そういうと、祖母はとても嬉しそうな顔をした。そして、お祭りに間に合うように大急ぎで自分で仕立ててくれた。
小学校に上がった私には、洋服がたくさん必要になった。その近所の小学校には制服がなかったのである。
すると祖母と母は競うように、洋服を作ってくれた。祖母のは和裁の様式で、型紙を使わなかった。
「ちょっとおいで」
そう呼ばれてメジャーでサイズを測られ、ふんふん、と生地を裁ってゆく。
母は新しい生地を買ってくるが、祖母は古いワンピースを潰したりもして作ってくれた。
彼女が好きな柄は水玉で、たいてい胸元に大きな襟のような白い布が丸くついていた。
今思えば、白い胸元はレフ板効果もあり、ぱあっと顔が明るく映えるのだ。そういうことを、昔の人は日常の経験からわかっていたのかもしれない。
母はドレスメーキングの洋裁学校を出ていたので「ドレメ式」の作り方だった。会話の中に「ドレメ式」とか「文化式」という言葉がよく出てきた。「文化式」は、文化服装学院の作り方である。
私は祖母に尋ねた。
「おばあちゃんは、何式?」
すると、祖母は言った。
「おばあちゃんは、キュウシキ」
当時の私にはキュウシキが「旧式」、古いやり方、だと言っている意味がわからず、他人に「かわいい服やね」と褒められると「うん、おばあちゃんのキュウシキやねん」と自慢していた。
それを見た母も祖母もえらく笑っていた。