90年代に上京すると、都内では「丹波篠山」ブランドの松茸などついぞお目にかからなくなった。
稀に新宿伊勢丹あたりで遭遇することはあったが、それはもう万単位の値段がついていたりして、とても手に取ることなどできなかった。
代わりに、一段下のカゴに積んであるのは、中国産の松茸だった。パックの上から匂ってみると、香りがしなかった。
そのうち、白っぽくてかさの開いたカナダ産というのも登場した。これは少し香った。が、なんとなく歯応えが頼りなかったりした。
数年前は北朝鮮産、というのもあった。あれは一体どういうことだったのだろう。国交がないのではなかったか。北朝鮮から中国に渡って、日本に来たということなのだろうか。
2016年ごろだったか、出張で福岡に行ったとき、市場で見つけたのはモロッコ産だった。嗅ぐとかなりいい感じである。ちょうどそのまま大阪の実家へ立ち寄ろうとしていたので、買っていった。
父の好物だ。きっと喜んでくれるに違いない。
「松茸買うてきたで。モロッコ産やて」
そう言うと、母は決まり悪そうに言った。
「二日ほど前に、それ買うて食べたわ。モロッコ産」
「えー」
喜んでくれるかと思ったのに肩透かしで、私は母の正直さにため息をついた。この人は本当に可愛げのある嘘などつけないのである。
だがひょっとしたら、父は母のそういうところを信用しているのかもしれないとふと思った。
今年はブータン産が出ているようだ。ネットで見ると、300グラムで12000円ぐらいが相場か。3000メートルくらいの高地にできるそうで、旬は9月あたりまで。香りは良いとの噂だが、私は実際にまだ見たことがない。
こうして世界中から松茸が日本にやってくるのは、高額で取引されるからという理由の他に、海外の人が「あの香りが嫌い」なことも多いからだという。
一歩間違えるとおしっこ臭い、カビ臭い、となるのだという。それに、松茸は薄い和の出汁との合わせでこそ香りも味も生きるのだ。オリーブオイルや胡麻油などの強い香りの油には負けてしまう。トリュフが案外、油と相性が良いのとそこが全く違う。
1990年代から2000年にかけて、ある男性大物タレントのエッセイの構成を手がけていた。最初は週刊誌の連載だったから、月に一度くらいお会いして話を聞いた。その取材で「丹波篠山の山でとり放題の松茸をすき焼きにした話」が出てきた。
「松茸の取れる山は限られていて、持ち主は厳重に人が入らないように管理してるねん。山に鍵がかかってる感じや。そこへ連れて行ってもらって、自分でとり放題にとってきて、霜降りの近江牛ですき焼きにして食べてん」
それはどんなに美味しかったろうと、口の中をひたひたにしながら聞くと、彼は首を振った。
「いや、鍋じゅう松茸の匂い、肉も松茸の匂いしかせえへんようになる。そんなに美味しいもんじゃなかった。なんか飽きるし。松茸って、やっぱりちょっと食べるのんがええねんで」
なるほどなあという気持ちが半分、でもそれは食べた人しか出せない結論だと羨ましいのが半分、だった。
去年は、松茸にはついぞ出逢えなかった。きのこの王様はその国籍を変えながら、しかし庶民にはなかなか逢えない存在になっていく。
日本人にとってその香りはやはり、気高い。
が、もしも先人がこの香りを「素晴らしい」と思わなければ、私たちの遺伝子はこの香りを「素晴らしい」と思ったのだろうか。生まれてから、大人たちが「松茸の香りがたまらん」と称えなければこの香りを好きと思っただろうか。
香りは深い。その嗜好には続いてきた遺伝子や、生まれ育った環境など、さまざまな要素が含まれていて、ひょっとしたらひとりひとりが胸にもう一度問うものなのかもしれない。
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Photo by Ari Hatsuzawa
Hair&make Junko Kishi
Styling Hitomi Ito