弟たちにもその時の悲しい記憶は残っているのだろうか。
27歳で結婚が決まる少し前、下の弟が「アダチのおかんが料理を教えてるで」と教えてくれた。うちから徒歩12〜3分のご自宅で、近所の知り合いばかり4〜5人集めての教室だという。
弟は中学からラグビー部で、その頃は大学でもラグビーをしていた。アダチくんというのは高校時代からのラグビー部仲間で、彼のお母さんは昔、辻学園の阪神校校長までやった足立通子さんだった。
なんでも足立先生は、息子のラグビー仲間たちが家を訪ねると、チャチャっと実に美味しいものをいろいろと作ってくれるのだという。
「うまいもんが魔法のように出てくるねん。そやからオレら、魔女って呼んでるねんけど。顔もちょっとシンデレラの魔女っぽいしな」
そんなことを言いながら、笑っている。私も一も二もなくお願いすることにした。丸顔で可愛らしい足立先生は、いつもニコニコしていて、その家からはいつも美味しい香りが漂っていた。
「なんかちょっとしたコツですわ。私も今また、四川料理習いに行ってますねんよ」
足立先生はおいしいものに貪欲だった。そして発想が自由だった。作るものは全部美味しく、調理過程で生徒が多少失敗をしても、絶妙にフォローしてくださった。私は、教える人のそのフォローに感動した。
「なんとでもなりますわー」
しかしそのなんとでもなる、のなかには、「こうすればこうなる」という、調理の科学がしっかりあった。そして、段取りだ。
ホワイトソースを使った鶏肉のフリカッセやロールキャベツといった料理らしいものから、オイルサーディンのスパゲッティや、セロリといかの燻製とレモン汁を合わせるだけのあえものといった簡単なものまで、彼女のレシピは基本的かつ料理に興味を抱かせてくれるものだった。
料理をあきらめない、ということだろうか。
野菜を切るのはいまだに遅いが、その頃の私はもう悲惨な遅さだった。でもアダチ先生は仰った。
「遅くてもいいの。ゆっくりやったらいいのよ」
出来上がった湯気のある料理を、皆で囲む時間の楽しかったこと。その半年は、私に自信とまでは行かないが「いつかなんとかなるだろう」という、期限のない確信をくれた。
結婚していた10年と8ヶ月で、私は人を招いたりすることがさらに好きになっていった。
元夫は長いこと主婦雑誌の編集をしていて、その周囲の人たちは、やはりお招きのプロのような人たちばかりだったからだ。
みなパリが好きで、元夫と私も、普段は節約して毎年なるべくパリに行った。彼の地の人たちも気楽に人を招く。そのためのようにワインがあり、チーズやおいしいパンがあるように思えた。
憧れていた女性編集長のSさん宅でも、忙しいのに週末のランチに何度も声もかけてもらえた。
「いらっしゃい。大したことはしていないのよ」
そのテーブルには焼き立てのフォカッチャがあり、トマトのサラダがあり、チーズがあり、さらに粒マスタードを載せて焼いた鶏肉の香りがオーブンから漂ってきた。
素敵なランチだった。こういうふうに肩肘張らず、笑顔で人をもてなせるようになりたいと心から思った。
そこにある会話もご馳走だった。
最近のパリでは、こんな店ができているとか、ここがおいしいとか。
そんななかに、ESTEBANの話があった。
「身につける香水ではなくて、生活のなかの香りの店でね、パリの中でも何軒かできているわよ。ルームスプレーだったり、キャンドルだったり。ロクシタンよりも、今のパリはESTEBANよ」
空間の香りにまで気を配る生活に憧れた。
それがまたもてなしの一部にもなるのである。おいしい食事と楽しい会話。そこにある暮らしをより楽しくする情報。
インターネットでなんでもわかる世の中のように見えるけれど、そういう場でしか得られない情報こそが本当の情報のような気がする。私は今もそう思っている。