《3》
帰り道、信三は自宅のある緑ヶ丘へ向かうタクシーのなかで、祖母のことをひたすら思い出していた。
「信坊、今日もおでかけするかい?」
そう言われると、幼い信三はくいっと腰から立ち上がった。
「おばあちゃん、ほんと」
「ほんとだよ。お化粧するから、ちょっと待ってるんだよ」
祖母はそう言うと、桜の木でできた三面鏡の前に座った。両端に四角い箱のような引き出しがあり、華奢な鉄の取っ手の周りには桜の花びらが彫ってある。そこから出てくるのは、鏡のついた丸い器に入っている、何やらいい匂いのする粉だった。祖母はそれをはたはたと顔につけた。鼻の下をくいと伸ばして、丁寧にはたいた。
じっと見ていると、鏡のなかを覗きながら、祖母は言った。
「男は女が化粧しているのを見るもんじゃないよ」
幼い信三は意味のわからないきまりの悪さを覚えて、くるりと背を向けた。そしてさらに拳を握るほどに目をつむった。
その様子を見て、祖母は面白そうにからからと笑った。
「もういいよ… はい、できました」
信三が走り寄って祖母の肩に抱きつくと、その粉のいい匂いがした。
大島にグレーの紬の趣味のいい帯。
抱きついたときの、その着物のしゃりっとした肌ざわりも気持ちが良かった。
帰りに銀座で食べたアイスクリームの味も蘇ってくる。
「信坊、男っていうのはね」
事あるごとに、祖母がそう教えてくれた。官庁の仕事に忙しい祖父ではなかった。なぜか三男坊の信三には、祖母が母であり父であるような存在だった。
ふっと、鼻先に祖母の粉の匂いを思い出したような気がした。