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  • 連載読み切り短編小説『香りの記憶』
    第1話『祖母のおしろい』

《4》

「お客さん、住所のところですよ」
タクシーの運転手に起こされて、信三は目を覚まし、チケットに金額を書き込んで、よいしょと車を降りた。
静かに門を開け、ポケットから鍵を取り出して、2箇所ある鍵を開ける。

「ただいま」

誰も答えはしない。妻は先に眠っているし、高3の娘は起きていたとしても、ヘッドフォンで音楽を聴きながら受験勉強をしているのだろう。

きれいに整頓された玄関から、廊下を歩き、リビングダイニングへとたどり着く。営業人生の信三は、結婚してもずっと夜は外で食べるのが当たり前になっているから、食卓の上には何もない。

間接照明を一部分だけつけてみる。

ソファーの上にも、その前にある小さなテーブルにも、何もない。

信三はそんな当たり前の風景が、急に寂しく思えてきた。

自分はたっぷり生きているのか。
祖母が教えてくれたようなことを、娘や、会社の部下たちに、ちゃんと教えてきたのか。あいつらの記憶に、そんな風に残れるのか。

無理だ。

そう思った瞬間、口からあの言葉が大きな声で出た。

「た〜っぷりぃ〜」

どどどっ、と音がして、Tシャツに短パンの娘が2階から降りてきた。

「どうしたの!」
「いや、あの…」

長い両手で頭を抱えた娘が、顔をしかめた。

「いやだ、酔っ払いなだけ?」
「まあな」

娘は冷蔵庫をパタンと開けて、1リットルの牛乳の紙パックをひょいと持ち上げて振り、量をわかって、そのままくくっと飲み干してしまった。

「あ〜。じゃね。あんまり飲み過ぎないように」
「あ。ああ」

信三は何か言おうと思ったが、あきらめた。
でも、今度絶対、梅さんの歌舞伎を見に行ったら、大向こうからあの掛け声をかけてやろう、と強く思うのだった。

  1. 4/4

作者プロフィール

森 綾
https://moriaya.jimdo.com/
エッセイスト、ライター。
最新刊『Ladystandard』(マイナビ出版)、『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など著書多数。
大阪生まれ。神戸女学院大学文学部卒。新聞記者、放送局編成部を経て92年上京してフリーランスに。Web小説では映画『ハンティングパーティー』のノベライズ、映画化された『音楽人』原作などを手がけている。
https://www.amazon.co.jp/%E6%A3%AE-%E7%B6%BE/e/B004LP4KI8

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