《3》
登山鉄道を強羅で降りると、宏之と絵津子はまず指定された昼食場所へ向かった。
大きな旅館の離れであるが、古い立派な洋館だ。
「岡崎様でいらっしゃいますね。いらっしゃいませ」
明治時代の書生のように袴をはいた若い男が小走りに出てきて、なかへと誘った。
「なんでわかったのかしら」
「この時間に予約したのが俺たちだけだったんだよ」
ふたりは納得して靴を脱いで中へ入った。
「宮様が住んでおられたお屋敷なのね。まあ、こんなところに来られるなんて」
絵津子は興奮気味に、入り口にある大きな鏡を覗き込んだ。
自分の後ろに手術してから短髪にした髪が白くなった宏之が、靴を脱ぐのが映っていた。
ふたりは窓際の席に案内された。
梨沙子がメニューも選んでくれているらしく、秋の彩りをちりばめた懐石料理が一皿ずつ運ばれてくる。
「いろいろ考えてくれたのね、あの子…。こんなことができるのに、なんでお嫁にいかないのかしら」
絵津子が菊の花を合わせたお浸しを口に入れると、宏之も食べながらぽつりと言った。
「仕事が楽しいんだろう」
「仕事仕事、って…」
絵津子のその言葉に、宏之はふと自分が責められているような気がした。
思えば長いこと、本当に仕事が大事だった。宏之は香料の製造会社にいて、調香師とまではいかないが、技術職だった。最後は部長だったが、管理職が本格的になってからの病気だった。
嗅覚を頼りにしてきた彼が、嗅覚を失うというのはなんとも皮肉なことだった。
いつになく、絵津子の言葉を宏之は少し笑って肯定した。
「あいつ、俺の背中を見て育ったかな」
そこで憤慨したり皮肉を言ったりしない宏之のことが、絵津子は少し寂しかった。
病は人の心を弱らせる。お椀をすする夫の丸い背中を、絵津子は見るともなく見つめた。