《3》
それから秋になった。母親と佳子がいつものように坂を登っていくと、家々の垣根のそこここから、金木犀の香りが待ち伏せするように漂った。
「おかあさん、いい匂いがする」
佳子が言うと、母親は静かに言った。
「きんもくせい、よ。ほんと、いい匂いね」
その香りのなかを母親と歩くのは、佳子にとってとても気持ちのいいことだった。
あれから、先生も元のやさしい先生に戻った気がする。もう母親には何も言わないでおこうと、佳子は子ども心に決めていた。
そのとき、母親が「あ」という小さな叫びにも似た声とともに、佳子の手を握りしめて立ち止まった。
見つめる坂の上のあたりに、裸足で立ち尽くしている先生の姿が見えた。
ちょうど佳子と母親の脇を、肩で風を切るように足早に去る髪の長い男がすれ違った。
「さとしさーん」
先生が呼ぶ大きな声が聞こえた。母親は佳子の手を握ったまま弾かれたようにぎゅっと後ろに方向転換した。二人は黙って坂を下った。
駅の近くまで来ると、母親はひそめた眉を元に戻しかねて佳子に言った。
「佳子、あの先生、おかしなところはなかった?佳子に、何もしなかった?」
いつにない母親の強い口調に佳子は問い詰められて、思わず口にした。
「手え叩かれた。1回だけ」
「やっぱり。おかしいのね。ああ、もっと早く気づけばよかった。ごめんね、おかあさん、気づかなくて」
家から裸足で走り出るなんて、と、母親は切符を買うときも、ふと口走った。