さて脳の中の仕組みと香りはどんなふうに繋がっているのでしょうか。
「香りは記憶につながっているとよく言われますが、感情にも繋がっています。例えば、赤ちゃんはお母さんに抱かれて眠るよりも、おばあちゃんに抱かれて眠る方が安心して眠るのです。これはどういうことかというと、赤ちゃんは年齢によって変わる女性のホルモンを嗅ぎ分けているのです。そしてさらになぜ高齢者の香りの方が安心するのかを研究すると、どうやら遺伝子のなかの記憶にまでたどり着きます。我々の祖先は年寄りが子どもの面倒をみていたという記憶です」
人間の「香り」を嗅ぎ分ける本能は、遺伝子の記憶に由来しているというのです。
「人間は安心できる香り、危険を感じるにおいを、誰かに教えてもらったわけではなく判別できます。例えば、腐ったにおいは嫌なにおいです。死に近づいている匂いです。恐竜がいた時代の人間の記憶は、今の私たちの遺伝子のなかにまだ存在しているんですよ」
知れば知るほど深い、遺伝子の中の香りの記憶。ボラーさんは、嗅ぐことの根源的な凄さを知っている人なのです。
「だから、精神状態の不安定さや皮膚炎などを引き起こす人工香料もあると思いますよ。逆に言えば、天然の香りというのは人に心身の健やかさをもたらすとも言えるのです」
天然の香りにこだわるボラーさんは、トゥールダルジャン 東京で使う食材にも、天然のものを使うことにこだわっています。
「トゥールダルジャンといえば鴨料理が有名ですが、日本での開業当時、フランス産の鴨肉は冷凍しかなかったのです。そこで、フレッシュな冷蔵の鴨肉を輸入するルートをゼロから開拓しました。大変な挑戦でしたが、なんとか成功させることができました」
フレッシュさでいえば、日本にある食材が一番。何よりも大事なのは水です。
「日本の地方の水には素晴らしいものがあります。30年前、私は偶然、静岡県である温泉水と出会い、どうしてもレストランでこの水を使いたいと訴えました。わざわざそこから水を取り寄せて、と思った人もいるかもしれませんが、それもすっかり受け入れられました。今ではこの水でコンソメを作っています。せっかく日本にいるからこそ、日本の天然の良いものもできるだけ取り入れたい。それは日本の人たちの遺伝子に刻まれた記憶とも結びついているでしょうから」
自然で美味しいものは、そんなに味が濃くないというのも、彼の主張です。
「今の時代は、味もすぐに満たされるものしか望まない傾向がありますね。でも自然なものなら、味は薄い。日本にもそういう文化がちゃんとあります。子どもたちにいきなり濃い味の人工的なものを食べさせるのは疑問です。音楽だって、いきなりレゲエやロックを聴くより、クラシックから入った方がいい。その後、レゲエやロックを聴いても、またクラシックを聴きたくなる感性も育っているからです。人工のものを使うのは楽です。でもうちは使わない。舌だけでなく、口や鼻で、つまり五感すべてで、味を実現しなくてはなりません」