もともとは早稲田大学を卒業し、会社勤めをしていたこみちさん。しかも大学時代も落語研究会には見向きもしなかったそうです。
「落研の友達もいなかったですね(笑)。どちらかといえば芝居オタクで、堺雅人さん、古田新太さん、同級生の長塚圭史さんらのお芝居をしょっちゅう観に行っていました。彼らのことは私が育てたと思っているくらい(笑)。当時は公衆電話で芝居のチケットを取っていた時代です。ある休日、どの芝居も取れなかった日があって、友達に電話したら『寄席へ行ってみたら』と言われたんです」
初めて寄席へ行ったこみちさんは、十代目柳家小三治さんの落語に衝撃を受けました。
「小三治、世界一面白い!と、感動しました。芝居のように照明も凝りに凝った演出もない。ただおじいさんが出てきてボソボソ喋るだけで、なんでこんなに面白んだろうと。登場人物一人ひとりが生き生きしていて、友達になりたいくらい」
行動的な彼女は、すぐに弟子入りしたいと思います。
2002年に会社を辞め、2003年、柳家小三治の弟子の柳亭燕路に入門したこみちさん。
しかし当時の燕路さんは「落語は男のもの」と思っている人だったそうです。
「『落語家がどうやったら成功するかは誰もわからないし、俺がそれを知っていれば、俺がそれをやっている。それに、俺は落語は男がやるものだと思っている最たる人間だ。だけど、俺がどう生きているかを見せることはできる』と言って弟子にとってくれました。その頃、女の前座も男の着物を着て修行していたのですが、うちの師匠から、女性の噺家は女性の着物を着ているのが自然だからと、前座の頃から女の着物を着て修行するように言われました。着物での立ち居振る舞いが身につくように、師匠の家の掃除、炊事、洗濯、風呂掃除、トイレ掃除まで、着物にたすき掛けをしてやっていました。前座修行が終わる頃には、着物にたすき掛けでバスケもできるぜ!の勢いで(笑)、着物ライフが身につきましたよ」
東村山の実家から6時14分の電車で都内の師匠の家へ。帰宅すれば深夜1時を回るという生活が始まりました。
「毎日眠くて眠くて。でも寝不足のまま突っ走らないといけない。落語をやりたくてもできない。休みもない。そんな日々が続いて、実家から通うのは体がもたず、師匠の家のそばに部屋を借りるようになりました。それでもとうとう修行生活3年目に、胃、食道、十二指腸に潰瘍ができてしまいました。何も喉を通らなくなってしまったんです」
ふらふらになって、電車の中で女子高生に席を譲られたことも。ところが病院へ行くと、お医者様から思わぬ言葉が。
「病院の先生に『修行が足りません』と言われたんです。何言ってるんだ、バカなのかこの人、と思いました。そうしたら『噺家さんというのは、何百年もそういう修行をして一人前になって、体も健やかでいらしたんでしょう』と。ハッとしました。そうなんですよね。それでも心身健康で、本物なんだな、と。長く男性だけの社会だったのは、男性の体力だからできる修行だった、ということもあるのかもしれませんね」
ただ、こみちさんは師匠の家で家族のように暮らし、修行をさせてもらえたことで、特別な経験ができたと言います。
「私は、月に1回ぐらいはお皿割ってたし、タオルのしまい方も雑だし、生活の細かなところを私に乱されて、おかみさんは嫌な思いもしていたと思います。それでも毎日、ご飯を作ってくれました。とりわけおかみさんの作るキムチチゲが好物でした。仕事が遅くなり、師匠の家に帰った時に、キムチチゲの香りがした時は嬉しかったですね。長男のシュウ君(通称)が、『愛ちゃん!チゲだよ!』って。シュウ君には本名で呼ばれていましたが、チゲにもシュウ君にも癒されて救われていました」。