もともと、中村橋吾さんが歌舞伎役者の養成所に入ったのは「実は東京に出たかったから」。
「不純な動機でしょう。シンプルと言えばシンプルですが。子どもの頃から歌舞伎が好きだというわけでもなく、実はそれまでに1回しか見たことがなかったんです」
ただ、どう見ても橋吾さんの顔は役者顔。少し猿之助さんにも似ています。
「澤瀉屋さんと成田屋さんを足して二で割ったような顔だとよく言われます」
成駒屋に弟子入りした橋吾さん。歌舞伎に精進しつつ、先輩方の舞台を見ると、どんどん歌舞伎が好きになっていきました。
「素晴らしい舞台は本当に元気をもらえますよね」
実は橋吾さんにはすっかり元気をなくすようなこともありました。20代のとき、実家ごと故郷を離れざるを得ない経緯が。
「故郷には帰れないと思っていたんです。山形はもう、もうお墓しかない場所になっていました」
しかし、橋吾さんには大人になるまで大事に育ててもらった思い出が残っていました。両親はもちろん、祖父母にも。
「ばあちゃん、こんなことしてたなと思い出して、梅酒や梅干しを作ってみたり、味噌を仕込んだり。僕は結構、そういうことが好きでやっていたんです。そうこうしているうちに、成駒屋の襲名公演があり、全国巡業をすることになりました。コロナの前の年だったかな、久しぶりに東北へ行くということで、地元に劇場もできて柿落としだったので、私も出たんです」
舞台のあった次の日、橋吾さんは車を借りて、思い出の場所を巡りました。
「子どもの頃、古びたお堂で『仁王様の股くぐり』というお祭りがありました。かなり古くはなっているけれど立派な仁王門があって、仁王様の股の下を、子どもたちがきゃっきゃと笑いながらくぐって、身体健全を祈るんですよね。ちっちゃい縁日も出て、私はそのお祭りが大好きだったんです。その辺りを通りかかると、たまたま、そのお祭りをやってるじゃないですか。たった1日のお祭りの日。しかも、聞けば猛暑で8月の日程を7月に前倒ししたというんです」
ものすごい偶然。こういうことを奇跡とか「呼ばれた」というのでしょう。そのお堂に集まっていた人に「今日やるってよくわかったね」と言われ「たまたまです」と言ったら心底驚かれました。
「『どこの子?』と聞かれて『〜の孫です』と言ったら、そこにいた全員が真顔でバッと私を振り返ったんです。え、なになに?と思ったら『見てごらん』って、指をさされた上の方に、うちの祖父母、曽祖母の写真が並んでいたんです。うちの祖父母と曽祖母は、このお堂を守ろうと活動していた人たちだったんですよ。もうびっくりして。家も何もなくなってるから、ここで祖父母と曽祖母に会えるなんて。号泣でした。私だけじゃなく、そこにいた人たちみんなが…。不思議なこともあるもんです。故郷への想いはずっと心の中にあったから」
そこからコロナへと突入しますが、橋吾さんは自分が歌舞伎を続ける想いを新たにしました。
「役者を続ける意味と気概を知り、もう一つはこの故郷への想いがあってこそだなと」。
やがてコロナ禍もおしまいの頃、公演が戻ってきた頃に、橋吾さんに思いもよらぬチャンスが訪れます。
「七代目尾上菊五郎の旦那が主人公で出た『おどしゃ』という愛称の芝居があって、そこで米を喉に詰まらせて気絶する坊主のお役をいただいたんです。好きなことやっていい、と言われたので、せっかくならその米、山形のブランド米『つや姫』を食べた設定にしようと。つや姫を米櫃の中に隠して、喰らう。『こりゃうまい、なんとつや姫ではないか』とアドリブでやったらお客さんにとても受けまして」
すぐに山形新聞が取材に来て、新聞記事に。
「その記事を読んだ県の人から連絡が来て、大使になってくれませんかと。それでやまがた特命つや姫観光大使になりました。そうしたら鶴岡市にも連絡が行き、鶴岡ふるさと大使もやってほしいと。鶴岡市の酒井家入部400年事業があると呼ばれ、そこで表彰式をしてもらうことになりました。また、鶴岡市の荘内神社で奉納公演をさせていただけたのです。もうこれは、祖父母と曽祖母の導きとしか思えないですよ」
橋吾さんはさまざまなイベントで、山形の名産品を紹介しています。
ひとつひとつの名産品をブランディングして紹介していく。それはご自身をブランディングしていくことにも影響していったのかもしれません。