そもそも宮治さんが落語に初めて出会ったのは30歳のとき。一般的に落語家になる人は、小さい頃から落語好きっていう人が多いようですが、宮治さんはすでに30歳だったのです。
「YouTubeで、亡くなった桂枝雀師匠の落語を見たのが初めてでした。動画で観る落語だったんですよ。一番最初に見た落語が枝雀師匠でよかった。こういう言い方をすると語弊があるかもしれませんが、他の落語家さんだったら、僕は落語家になろうと思っていなかったんじゃないかな。ハゲたおじさんが座布団に座って一人で喋っているだけで、立ち見もいるような大入り満員のお客さんが涙流して笑ってるんですよ。衝撃的な映像でした」
その動画に出会ったとき、宮治さんはまだ化粧品のセールスマンでした。
「僕もね、50人、60人、無理やり人を集めて、1日7〜8回、ステージをやってたんです。『買いたくない、できたらもらって帰りたい』という人たちをなんとか『買いたい』にする作業でした。それを毎日毎日やっていた。笑わせて、その気にさせる。なんか、人間として生まれてきて、お客さんを前にしゃべって、同じようなことをやっているのに、結果、人としてなんでこんなに差ができてしまうんだろうと思ったんですよね。枝雀師匠は確実に人を喜ばせて、楽しませて『もう1回会いたい』と思わせる。あの人よかったね、楽しかったね、とお客さんは帰っていきます。
僕がやっていた営業は、どうなんだろう。今日、僕の話を聞いた人たちは幸せになってるんだろうか。また僕に会いたいと思うだろうか。いや、逆だな、と。もちろん、いい職業だと思うし、今もやっている友達がいるから、考えすぎなんですけどね。その気持ちにプラスして、枝雀師匠だというのが大きかったです。こんなすごい人がいるんだ、と。10分の動画ですから、ライブの何百分の1も伝わってないと思うのに、カミさんと10回見て、10回大笑いしました」
そこから落語家になるにはどうしたらいいか、宮治さんは調べ始めました。
「どうしたらいいか、何にもわからないですよ。品川区生まれの品川育ちだけど、末廣亭も前を通ったことしかないし。それで、どうやったら入門できるのか、いろいろ調べました。テレビで売れてる人はちょっとちがうだろう、とか。調べていたら『父親以上の存在になれる人を探さなきゃいけない』と。出会えるわけないよな、それでなくても人嫌いなのに、と思っていました。訳もわからず、ぐるぐるといろんな寄席へ行きました」
運命の人とは、偶然に出会うものなのかもしれません。
「その日、たまたま国立演芸場の袖から、へらへらっと師匠が出てきたんです。その瞬間、カラダに電気が走って、この人だこの人だ、僕の人生を預けられるのは、と思いました。この人に断られたら、落語家にはならないと、すぐ決められました」
その人は、桂伸治さん。何度も断られますが、弟子入りすることに。
「何百人もの落語を観たなかで、うちの師匠に出会えたこと、その前にYouTubeの動画で枝雀師匠を観られたこと、そしてカミさんに出会えたこと。それが僕の人生の3つの大事な出会いです」
奥様のことをとても大事にしていらっしゃる宮治さん。セールスマンを辞め、落語家になることを、なんと結婚式で発表されたのでした。
「本当、僕はいい加減な人間なんで、どっか踏ん切りつけないと前に進めないと思ったんですね。ただ落語家になるぞ、とカミさんとの間で決めてるだけじゃ多分、ずるずると営業をやっていそうだから、もう絶対逃げられないところで言っちゃおう、と、結婚式で言ったんです」
そこからしばらくの間は、奥様が経済的にも支えになってくれました。桂宮治を育てたのは、奥様でもあるのです。
生来の「人見知り」だという宮治さん。実は登園拒否から始まっていました。
「人見知り、人嫌いだから、保育園も小学校も行けなかったんです。ただ、どこで誰がどう思ってるかをずっと考えながら生きていたようなところがあって。あの人はどのくらい興味がある、ない、と言うのが気持ち悪いくらいわかるんですよ。仕事の要領はいいので、社会人になってからはそこそこ稼ぐことはできました。だけど、あんまり人を見すぎて疲れちゃうから、そこそこにしてしまう」
人に対しては極度に敏感だった宮治さん。子どもの頃、心を休められるのは、おばあちゃんの存在だったようです。
「僕はおばあちゃん子でした。姉が3人いて、長女と僕は9つ離れていたんです。それで、長女が結婚した後、僕が中学1年生のとき、両親が離婚しました。そのときに姉ちゃんたちが『今日喧嘩してるから、多分、離婚するね』と言っていて、僕はアイス食べながらそうなんだ、と思って聞いていた。そうしたら、僕、本名は利之で、トシくんと呼ばれていたんですが…『言ってなかったけど、トシくん、私たちと父親が違うから』って。姉3人は母の連れ子だったんです。僕は祖父母にはものすごく可愛がられていたので、男の子だからかなと思っていたんですが、僕だけが血が繋がっていたからだったんですね」
お祖父様は新潟から出てきて一代で大成功されていました。店舗をいくつももっていて、小さい頃から個室も与えられていた宮治さんでしたが、お祖母様の部屋で寝ていたそうです。
「祖母が洗濯物やってくれたり、学校の支度してくれたりしていました。それで、祖母の部屋に布団を敷いて寝てたんです。祖父は僕が3歳のときに亡くなっていて、朝と晩30分ずつぐらい、祖母は仏壇に空でお経をあげていました。僕は寝っ転がりながら、それを聞いていて。そのときに、必ずお線香をあげるんです。外には武蔵小山の駅前の喧騒があります。カラオケの音、酔っぱらいの声がぐちゃぐちゃになるなかでの、おばあちゃんのお経の声と線香の香り。それが僕がもっとも落ち着く時間で空間だった。子守唄のように、一番安心できるものだったんです」
今も、時々その場所が恋しくなります。
「だからお線香の香りは落ち着くんです。冬でも蚊取り線香をたいたりするくらい!」