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    第229回:茅野イサムさん(演出家、俳優)

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《3》日常が絶望だった幼少期。演劇は希望の光だった

 茅野さんがもともと、演劇に魅せられたきっかけは、つかこうへいさんの演劇でした。

「高一のとき、生まれて初めて紀伊國屋ホールに並び、つかこうへいと出会いました。満席で座布団を渡され、通路に座らされました。今じゃ考えられませんが、客席はまるで満員電車のようでした。私は大袈裟に言うと、小さい時から人生に絶望しているような小僧でした。だけどその日そこで、見ず知らずの観客たちと同じセリフで大笑いし、涙を流しているうちに、『何だこの空間は。こんな幸せな世界があるのか』って思ったんです。どこにも居場所のなかった自分にとって劇場が、ただひとつの寄る辺になったんです」

 小さい時からの絶望感とはなんだったのでしょう。

「Netflixで放映されている『極悪女王』を見たときに、主人公の生い立ちに似ているなと感じました。あまり思い出したくないことですが、父親は家庭を顧みなかったし、周りの大人たちも、道を踏み外している人ばかりで『ああ、僕もこうなっちゃうのかな』という恐れと、もっといえば諦めしかなかった。中3のとき、生まれ育った故郷から母親の実家のある立川になんとか逃げ出すことができましたが、東京に出てきたからと言って自分が変わるはずもなく、慣れぬ土地での生活に孤独が益々深まりました」

 未来を絶たれるような絶望が、つかこうへいの舞台を観たことで、希望に変わりました。人が一つの舞台に泣いて笑っている演劇というものがある。茅野さんはその希望の光に向かって歩き始めます。

「高校を卒業して、初めに入った劇団は、小さなアングラ劇団でした。それは60年代から70年代にかけて流行した、当時最先端の演劇でした。その根底には60年代の学生運動や市民運動があり、また既存の演劇(新劇や商業演劇)に対するカウンターカルチャーとしての面もありました。少年だった僕は、その過激さに恐れを抱きながらも、既存の演劇にはない破天荒な魅力の虜になっていきました」

 ただ、茅野さんが演劇の門を叩いた80年代は演劇界の様相も変わりつつありました。
世の中では、カウンターカルチャーであったはずのアングラが、野田秀樹さんの「夢の遊眠社」を筆頭とする新しいカウンターカルチャーの勢いに押されていたのでした。

「でも僕はその新しい潮流に気付かず、すたれゆくアングラの尻尾につかまって、地べたを這いずるような役者人生を送っていました。そんな演劇を5年ほど続けたのですが、さすがに自分の所属している劇団の時代錯誤に気付き、もっと今の時代に必要とされる演劇をやりたいと思うようになりました」

 同世代の新しい演劇を見つけ、足繁く観に行くうちに出会ったのが、横内謙介さんの劇団「善人会議」だったのでした。

「24歳の時に、劇団「善人会議」の『夜曲』という芝居と出会いました。同い年の横内謙介が作った、みずみずしい感性に溢れたこの芝居の虜になった私は、終演後すぐに彼に面会を申し込み、入団させてくれと訴えました。一度断られたのですが、諦めてなるものかと、押しかけ入団したのです」

 横内さんと出会った茅野さんは、どんどんその才能を開かせていきました。

「横内謙介に出会ったことは、僕の演劇人生にとって一番大きな出来事でした。才能は才能のある人間のもとでしか開花しない。横内謙介のもとで稽古している役者たちが、どんどん成長しているのを間近で見て、そう実感しました。僕の演劇人としてのベースは横内謙介のもとで作られたのでした」。

茅野イサムさん

《4》演出家として人に必要とされる喜びを味わった。必要としていたのは演劇そのもの

 茅野さんは横内さんの劇団「善人会議」の1986年公演『まほうつかいのでし』で俳優として本格的にデビューしました。

「最初はとにかく主役をやりたいとか、役者で売れたいとか、恥ずかしいくらい浅い考えしか持っていませんでした。でも『善人会議』で役者をやっていくうちに、少しずつ芝居の面白さ奥深さに気付いていきました。役を掘り下げることとか、作品においての自分の役割みたいなものに意識がいくようになった。この役だったら六角(精児)には敵わないとか出てくるわけです」

 劇団の中で、茅野さんの存在感は強まっていましたが、あるとき、演出の仕事を頼まれました。

「二十数年前のことです。劇団運営のために養成所を作ったのですが、何故かその卒業公演の演出をやることになってしまいました。それまで演出なんてものに興味を持ったこともなく、本当はやりたくなかったのですが、他に人がいないという事で、渋々引き受けました。ところが、なぜかその演出作品が大評判になったんです。役者で褒められたことなんてほとんどないのに、みんなが褒めてくれてびっくりしました。
 僕は先ほども話したように他に居場所がなくて、必死に演劇という世界にしがみついて生きてきました。演劇が俺を必要としているのではなく、俺に演劇が必要だったから、どんなに辛くても辞めるという選択肢はなかった。皮肉なもので、あれほど恋焦がれてきた役者ではなく、やりたくもなかった演出をした途端、人に求められるようになった。複雑な気持ちはありましたが、初めて人に必要とされたという喜びが、演出家としての道を進む力になったような気がします」

 劇団の良さ、を茅野さんは今も大事に思っています。

「劇団というのは、大変ですよ。食えないですから。もちろん食べられるようになりたいとみんな思っているのですが、まあ、ほとんどの人は諦めています。でもね、劇団のいいところは一年中芝居ができるという事です。事務所に所属している役者さんはオファーがなければ仕事ができないけど、僕ら劇団員は自分たちの手で芝居を作り上げているから、やめなければずっと芝居ができるんです。だから僕のように大して才能のない男でも、何十年も時間を掛けて力を付けることができたんです。今、2.5次元ミュージカルを支えている作家や演出家など、ほとんどのクリエーターは劇団出身です。みんな、劇団という自分たちの表現活動の場で、試行錯誤を繰り返しながらスキルや感性を磨いてきたのです」

 逆に、今の若い人たちは結果を急がされて可哀想だと茅野さんは思います。

「今の人たちはいきなり結果を出さないといけない。確かに短時間で伸びる人もいますが、そういう人ばかりではないでしょう。僕らは劇団の中で、失敗が許された。それは、すべての責任を自分たちで背負い、雇われるのではなく、自発的に活動していたからです。どっちがいい悪いではないと思います。ただ、今は若いうちに大きな仕事を任され、失敗はなかなか許されない。厳しいですよね。若くして開く花もありますが、年齢を重ねてから開く花もある。今は、遅咲きの役者さんが生き残るのが難しい時代だなと感じています。じっくり育つ場所がほとんどないんです」

 演出家としての器量も、劇団が育ててくれたと茅野さんは思っています。

「演出だって場数が必要。僕らの時代は小劇場ブームが一時期あった。人が密接に関わり合う劇団は、今の人たちには敬遠されがちです。結果、育む場としての演劇が弱くなっていて、僕らの後の世代の演劇人が育ちにくくなっている。そのことには勝手に危機感をもっています。演出家、脚本家、作曲家、衣裳。すべての裏方を育てる場を作らないと。個人の力は限られています。だから、やっぱり劇団のような場所や組織は必要なんです」

 2年前に茅野さんは還暦を迎え、劇団「悪童会議」を旗揚げしました。

「『悪童会議』という劇団名は、横内さんの『善人会議』へのオマージュです。還暦記念で、1回、役者に戻ってみようと思って。自分が演出する舞台に出たわけです。楽しかったですね。すごく楽しかった。楽屋なんて、もう20年ぶりだから、居方がわからなくて(笑)。そういえばオレ、役者時代はストレスがなかった。終わったらすぐ飲みに行って、次の日ピンピンしてたけど、今はもう、飲んでられないです。いろいろと考えること、やることが多いから。ただ、今必要としてくださっている方々が本当にいっぱいいるから」

 おそらく茅野さんの演出は、一人一人を隣にいる役者の目線で見続け、どうしたら良く見せられるかと心を砕く、底の深いものなのでしょう。

「この間もある役者に言われました。『演出って楽しいですか』って。『つらいね。だって、俺、そんなに楽しそうにしてないだろ』と言ったら、深く頷かれてしまった。だけど、幕を開けてからは楽しいですよ。オレ、お客さんと一緒に客席で芝居を観るのが大好きなんです。舞台と客席が共鳴し合う瞬間は本当に痺れます。最高ですよね」。

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