コロナ禍で断たれてしまった海外公演が、今年は4年ぶりに復活するわけです。
「3年連続の台湾公演は、すごく評価が高かったです。とにかく、日本にはサブカルチャーとして根付いたアングラから小劇場という文化が、向こうにはまだ根付いていないですから。我々のような40過ぎた役者たちがこういう芝居を自主的にやっていることにまず驚いていましたし。影響を受けてくれる方たちが多くて、年々増えていっています」
台湾公演で舞台芸術を担当したユアンさんは、毎回、下北沢に来て、本多劇場の本多愼一郎さんにも何度も会って、劇場の歴史や運営について話を聴いているんです。ビルの中にある飲み屋だったところを劇場に改装して運営しているというような話はとても刺激的に感じるようです」
今回、12月末から1月にかけて公演を持ち込む『北投アートフェスティバル』を、本多劇場のような聖地に育てていきたいという思いがあるようです。
「北投は日本人が戦中戦後に温泉地として発展させたところ。日本の歴史や文化とのつながりも古いんです。当時は日本の芸者さんがいたり。そして今は、台北芸術大学があり、アートを学ぶ学生たちの街でもあるんです。その芸大出身者であるユアンさんは、今、自ら小さな劇場を建てました。隣には本屋さんやバーがあって、演劇を目指す若者たちが集まるような場所をつくっているんです。北投アートフェスティバルも開催して5年になるので、来てくれないかと。また来年、再来年と、台湾と日本の文化交流を演劇を通して継続していけたらなと思っています。いい作品をつくれば、台湾を含め、アジアにもっていける道筋ができたらと。それは1960年代から始まったアングラ小劇場の動きの延長線上にあるものだと思うんですよね」。
海外で公演したいという想いは、海外で生活した経験にも根ざしていました。塚原さんは19歳から23歳まで、アメリカに語学留学していたのです。
「マーシーカレッジという小さなコミュニティカレッジだったんです。でも異国で3年半過ごしたことで、いろんな人と出会い、いろんな経験をしました。そこでまた役者になりたいという想いは募っていったんです。とはいえ、ブロードウェイに芝居を観に行ったりはしてなくて。今思えばなんで行かなかったんだろうと思いますが(笑)。高校までラグビーやったり、語学がまったくダメだったので、それを覚えるのに必死でした」
帰国して、またバックパッカーに。
「インド、パキスタン、中国、ラオス、タイを一人で旅しました。でもそういう経験が、今、台湾公演やアジアに演劇をもっていきたいという気持ちにつながっているように思います」
つい最近、亡くなられたお母様は、ずっと塚原さんを応援してくれていました。
「母は埼玉で美容院を経営していました。女手一つで9店まで広げる仕事人間でした。でももともと、自分自身も学生時代にモデルをかじったことがあったらしく、芸事は好きだったのでしょう。最初、役者になりたいと言ったときは渋ったけれど、やり始めてからは、一番のサポーターでした。自分が経営している店の人たちにも演劇を見せたり、美術館に連れていって『人として豊かになりなさい』というようなことをする人で。技術だけじゃなく、コミュニケーション能力とか、美的感覚を養いなさいと」
そんなお母様の想いは、息子にも伝わっていたのでしょう。そして、なんとご自身も、70歳を超えてから、演劇にチャレンジされたのだとか。
「僕のことを羨ましいと言っていたんですが、あるとき、流山児★事務所のシニア演劇に出たんです。72、73くらいのときだったかな。『すごく厳しいけど、それも含めて楽しい』と言っていました。いまだにセリフを言えるよ、なんて。それは良かったと思いました。急に亡くなったのでね。もう観せられないんだなあ、と思いました」。