芦田多恵さんが淳氏から引き継いだブランドで、最も大切にしたことは、まずクオリティを守るということでした。
「メゾンとして根底にあるのは、高品質なものづくりというフィロソフィです。それに、ファッションデザイナーという仕事は、基本的に時代の空気を読んでそれをどう洋服に反映させていくかというのが役割なのだと思っています」
彼女は、日本だけではなくグローバルな環境のなか で「時代の空気を読む」教育を徹底的に受けてきたようです。東洋英和の小・中学部を経てスイスの高校に留学。大学はアメリカでデザインやアートを学びました。
「洋服を実際につくるという意味ではスタートは遅かったと思います。大学に入ったときに、初めて服づくりを学びました。普通、ファッション・デザイナーを目指していたら、もっと若いときから見よう見まねでつくっていたと思うのですが。当時、父は自分のアトリエに子どもが入ることをものすごく嫌がったんです。両親はずっと一緒に仕事をしていたので、私は幼稚園の帰りに母に『ちょっとここで待っていなさい』と、オフィスで待たされることはあったのですが、働いている現場には入ることができませんでした。たまたまそこで父に会っても『いつ帰るの』といった調子で(笑)。仕事は戦場だから、子どもが来るところじゃない、という考えだったんですね。だからものづくりを見せることは、いっさいなかったんです」
淳氏はそれだけ、洋服づくりに精魂を込めておられたのでしょう。服づくりと、娘という大切な存在の両方が同じ場所にあると、気持ちがぶれてしまうことをおそれられたのかもしれません。
「服の作り方は学校で教えて貰えばいい。技術は後から付いてくる。それよりも小さいときから感性を磨くことが大切だという考えが徹底していました」
美しいものたち。美しい人たち。美意識を磨くことがとても大切。多恵さんが3〜4歳のとき、淳氏は新社屋を完成。サロンに各界の方々を招いた華やかなパーティーを催しました。
「そのときのことを、私は今でもはっきりと覚えています。サロンのオープニングパーティーの前夜に、私をそこへ連れていき、しつらいを見せてくれました。インテリアにも凝り、美しい花が飾られていて、なんて綺麗なんだろうと思いました」
大学で美術史を学ぶようになった多恵さんにも、淳氏は世界の美術品を見せてくれました。
「夏休みにイタリアで本物を見よう、と。ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロをはじめとした美術品を美術館で見てまわりました」
一方で、洋服の作り方はほとんど知らない状態で、多恵さんはアメリカの大学で苦心しました。
「専門の学部に分かれてから、スカートのパターンを引くというところから始まったのですが、周りの学生はみんなそれくらいわかっているのに、私は生地の縦横もわからずでした。かつ、専門用語は全て英語ですから、苦悩の連続でした。それで母に電話で泣き言を言ったら『それができないんだったら無理だから、もう帰ってきなさい』とあっさり言われてしまって。そう言われたら、逆に、絶対に卒業してやる!と奮起しましたね(笑)」
海外での生活は、彼女に、自分で道を切り拓いていく資質も与えたのかもしれません。
淳氏が他界され、新しい年を迎える頃、多恵さんは新たな挑戦を始めました。
それは、メンズコレクションです。
「60年を超える歴史の中で、私を含め、今、会社にいる者たちはなんでもできる、なんでもわかっている、という自負の上にあぐらをかいているのではないかな、と感じたんです。私たちが疑問なく座っているこのお座布団には、カビが生えてはいないかな、と。ここで心機一転、みんながやったことのないことをやらなきゃダメだ、と思ったんですね」
技術者も自分も、やったことがないこと。多恵さんの思いきりの良さが形になりました。
「人様に頭を下げて、教えてください、から始めるようなこと。それをやらないともうダメだ、と思ったんです。そのとき、パッと頭に浮かんだのがメンズライン、でした。技術、販路、もう全部新しくなるけれど、これをみんなで謙虚な気持ちでやったらどうだろうかと」
ところが、その矢先のコロナ禍。また、始めてみたところ、レディースファッションの常識がメンズファッションには通じないという事実にも直面しました。
「レディースならこう、という方程式はことごとく崩れていきました。まず驚いたのは『究極を言えば、男性は見たことのないものは買わない』ということでした。女性は、見たことがない形でも、素敵だと思ったら購入します。でも、男性は『これはいったい何だ』から始まって、それを着るというところまで持っていくのにはすごいプロセスが必要なんですね。私共は常に新しいものを、という発想でやってきましたから、その点は驚きました」
もう一つ、男性の嗜好にはうんちくが必要というのもわかりました。
「この生地はどういうブランドで、こういう希少なカシミアを使っていて、裏地にはこういうものを使って、とか。デザインだけではないんですね」
新たな挑戦は、目から鱗の連続。でも、多恵さんはそれを生き生きと語られます。彼女にとって、挑戦は奮起を促すエネルギーなのです。