知力、体力、コミュニケーション力。全身全霊で理論物理学者として活躍している野村さんは、どんな幼少期〜青春時代を送ってきたのだろうか。
幼少の頃は茨城県に育った。
「小学校の頃は田んぼしかないようなところで過ごしていました。ザリガニやクワガタやカブトムシをとって喜んでいる子どもでした。とんぼの幼虫のヤゴとかね」
中学で横浜へ。1980年代後半のことだ。
「地元の公立校でしたが、普通に荒れていた時代でしたね。ドラマの『スクールウォーズ』のような感じです。ズボンは太い方が偉いという意味不明な身分制度がありまして(笑)。僕も分をわきまえず太いのを履いていくと『タイマン』という感じになって、一度だけ流血して帰ったこともありました」
やんちゃな野村少年は、しかし勉強もできる文武両道派だったようだ。
「中学のとき、2冊ぐらいブルーバックスを読んだんですね。確か1冊は佐藤文隆さんの本だったと思います。『一般相対性理論』についてわかりやすく書かれた本で、それが宇宙とか物理との出会いだったように思います。でも、物理と化学の区別もよくわかっていなかったかもしれませんね。硬式テニス部にも入っていました」
高校に入ると、今度は軟式テニス部へ。ここがまたかなり荒っぽい部活だった。
「今とは違いますからね。水を飲んではいけないし、朝練やって、暗くなるまで練習して。雨が降ったら、校内の廊下を仰向けになって手と足を床から離せと言われて、芋虫のように移動するとか(笑)。コートに一人立たせて、5人で打って、全部拾わないといけない。それを他の部員全員で野次るんです。もう怒りで何本ラケットを折ったことか。でも、最終的には神奈川県でベスト4まで行ったんです。県立高校としては大した成績でした」
進学校なので部活は高3で引退。その高校3年の夏、教科書にない「物理」の特別講義を受けたのが、野村さんと物理の大きな出会いとなる。
「進学校なので、高3で部活は引退。夏がぽっかり空いた。それで、物理の教師が14日間の特別講義をやるというので、通ったんです。受験勉強じゃないことをやるのは結構顰蹙だったはずなんだけど、これが二重スリット実験とか、相対性理論とか、そういうことばっかり喋っていらした。この先生が話がすごくうまくて、物理に興味がないはずの学生まで集まって、部屋が満杯でした。強化練習でコートの脇にいる下級生を見ながら、こっちにはこういう世界があるんだなあ、面白いなあと思いました」
すでに大学受験での進路は高2のときに理系と決めていた。しかし、物理は苦手だったと笑う。
「高2の模試で、物理が確か7点だったんですよ。学校の試験はできるんだけど、受験用の複雑な問題は、私立や塾では教えているんです。僕は塾にも行ってなかったので。3年生のとき、その物理の先生に出会って面白いと思って、本気で勉強し始めました。もうすでに物理、化学、生物の区別はついていたし、物理学をやる気にはなっていたと思います」
スポ根で磨かれた集中力と体力は、勉強することにも生きた。野村さんは、東大にストレートで合格したのだった。

大学時代の最初はまたちょっと羽を伸ばした。
「たとえば開成高校の卒業生は毎年200人近く東大へ入ってくるんですよ。6年間、授業について行くだけでそんなに頑張らなくても良さそうで。僕は1年間めちゃくちゃ勉強したから、そっか、まあちょっと遊んでもいいかと。テニスサークルに入りました。酒を飲んでる写真しかありません(笑)」
進学振り分けでは物理学科へ。大学院を受験するために勉強を再開した。
「ところが勉強し始めたら、また『何にもわかんねえ』となりましてね。そこからは本当に真剣にやりました。高3のときと同じで、また素晴らしい先生に出会ったんです」
それが後の指導教官となる柳田勉教授だった。
「東北大学から東大へ移ってきたばかりの柳田勉先生でした。超のつくくらいものすごい業績のある先生で、そのゼミで僕は素粒子物理に触れたんです。その頃は宇宙論か素粒子物理か迷いもありましたが、日本の場合、大学院に自分の進路を提出するとき、先生宛に出さないといけない。それで柳田先生の素粒子物理を志望しました」
野村さんの運命を決めているのは「かなわないな」という人との出会いなのかもしれない。アメリカへ行くきっかけもそんな出会いだった。
「大学院に入って1年経った直後に論文を書いて専門誌にも載りました。当時はまだ、外国人が街中にいたら珍しいくらいの時代だったんですよね。そこへ、たまたまアメリカのポストドクターという、博士号をとって、大学で職に就く前の人が二人、会議でやってきたんです。そのうちの一人が当時スタンフォードにいた人でした。会議自体は山梨県であったんですが、東京に寄ってから行く、と。そうすると、観光に連れて行ってやってという話になって。誰も手を挙げないし、英語はあまり喋れないけど、面白いなと思って手を挙げたんです」
そのとき、野村さんはその同世代のポストドクターのレベルに衝撃を受けた。
「東京を見てまわっている間中、やっていることの内容を聞いていたわけです。専門的なことですから、理解できました。そうしたら、レベルが全然違う。これはやばいと思いました。僕はそれなりにイケてると思っていたんです。学年で各研究室1人しか取れないような奨学金ももらっていたので。でももう彼の話は圧倒的だった。そこからまた集中して勉強しましたね」
結果、野村さんは博士号を1年早く取ってしまった。つまり飛び級で博士になったわけだ。
「多分、東大物理学では第一号です。そこで、プリンストン、カリフォルニア大学バークレー校、マサチューセッツ工科大などからオファーがありました。それで、数年前に日本を案内したポストドクターが当時助教授を務めていたバークレーへ行くことにしたんです」
しかし野村さんがバークレーに行ったとき、彼が日本を案内したポストドクターはもうそこには居なかった。
「その人は特別すごい人だったんですよ。その後、20代でハーバード大学の正教授になりました。今、アインシュタインの居たプリンストン高等研究所にいます。ああいう人が全員だったらもう無理だなと思っていたけど、あの人がてっぺんだったんですね。それはとても運がいいことだったと思います」
その学者としてのすごさとは、どういうものなのだろうか。
「しゃべり方も、反応の速さも、知識も、エネルギーもすごい。2時間ぐらいわーっと喋って、それをみんなが黙って聴いてしまう。他人の話を聞いても『ああ、それは面白いね。それで結果はこうなるよね』と、全部わかってしまう」
YouTubeで野村さんが他の教授陣を前に圧倒的にしゃべっているのも、そのエネルギーと同質な気がするのである。
