音楽活動と並行して、メディアにもお声がかかり始める。
なかでもテレビで半年、司会を経験したことが勉強になった。
NHK『青春プレイバック』。さまざまなジャンルの著名人に青春時代のことを語ってもらう番組だ。
「戸川京子さんの後を引き継ぐ形だったんですが、戸川さんの頃は東京のNHK仕切りだったんですね。ところが、私の代から全国の各局に回していこうということになって。2本目で大阪の局のロケに一人で行くことになったんです。ちょうどそのとき、ソロデビューする直前のことでした」
初めてのスタッフと一緒に、初めての土地で取材する。しかも話を聴く相手はすごい人ばかり。
「山田太一さん、横尾忠則さん、山本寛斎さん、田中裕子さん…。来る人、来る人、偉い人ばかり。今ならもっと上手く訊けるかもしれないけれど、当時は21歳ぐらいの小娘でしたから。すみません、という感じでした。でもそれをきっかけにその後もお友達付き合いしてくださる方もいて、ありがたかったですね」
今、ちわきさんは相撲の大ファン。しかし当時は本当に何を聴いていいかわからなかったという。
「仙台ロケで青葉城関にお会いできたんですね。『僕は仙台城を見ながら鍛えました』みたいなお話を伺って『だから四股名は青葉城なんですね』なんてね。もっと今ならいろいろ訊けるのに、本当にもったいないです」
当時はスタッフも厳しく、そんな若いちわきさんをもどかしいと思ったらしい。
「競馬の騎手の柴田政人さんにお会いするときに『親友の福永洋一さんが落馬されて入院されてるとき、どんなお気持ちでしたか』と質問しろと言われていて、私は遠慮してできなかったんですね。そんな事をきかれたら、絶対つらいじゃないですか。そうしたら、その日、すごく叱られて大泣きしました。けっこうスパルタだったなあ。ノンコンプライアンスな時代でしたからね」
その後、しばらくは音楽に勤しんだというちわきさん。やがて、今度はラジオのDJとして欠かせない存在になっていく。

ひとしきり創作活動をやり切ったと思えた1989年ごろ。大阪のFM802から声がかかった。
「バリバリ歌でやってきて、ひと段落ついたから、一度、ツアーや制作は休みたいと思ったんです。
数ヶ月、ロンドンへ行けたらいいなあと。そうしたら、事務所から『OBCにいた栗花落さんが新しいラジオ局をやるからデモ放送をやって』と連絡が来たんです。やらせていただいたら、そのまま開局からDJとして大阪へ行くことになりました」
そのまま、衛星放送のスペースシャワーでの企画も決まり、レギュラー番組のMCをすることに。
「大忙しになりました。そのまま、休む機会を失ってしまい(笑)。それぞれのレギュラーに加え、イベントもたくさんあった時代でしたから。毎日がイベントだったような気がします。毎日が学祭でしたね。表に出る私たちも裏でつくってくれている人たちも、怒涛の日々を楽しんでいましたね」
アーティストであるちわきさんは、他のアーティストたちと気持ちが通じるのだろう。フラットに会話する自然なしゃべりがリスナーにも心地よいのだ。
「自分ではそこはあまり意識していませんでしたが、音楽をやっているもの同士、というのはあるのかな。『これ、どうやってつくったんですか』というような話を聞くのは楽しいです。でもあまり専門的な話にはなりすぎないようにと思っています」
上からでも下からでもない、力みすぎない会話力。それがちわきさんの魅力の一つでもある。