弟子時代、こんな苦労もありました。
「宿墨といって、わざと墨を放置して腐らせ、その上澄みの色を使う手法があるのですが、腐った墨というのが、たまらない臭いがするのです。紙の上に書いたあとでも臭うのですよ。その書を皆の前で両手に広げて見せなくてはならないこともあったのですが、そのときは本当にきつくて、紙の裏側でしかめ面をしていましたね(笑)」
思いがけない香りの思い出ですが、今はそれも懐かしいとのこと。
もちろん、普段使う墨の香りは落ち着くものだとおっしゃいます。
「墨の香りをかぐと落ち着くという方は多いのではないでしょうか。一般的に墨は動物性のにかわや、煤、香料などを練って乾燥させたものです。煤は松の木を燃やしてあるようです。香料の主成分はまだ調べたことがありませんが、伽羅や白檀のような香りに近いですね。日本人で墨の香りが嫌いだという人はいないのではないでしょうか」
中澤さんのアトリエも、ほのかに墨の香りが漂う気がしました。
中澤さんの奥様は女優の熊谷真美さん。彼女はネットで中澤さんの教室を探してやってきたお弟子さんでした。
しかし真実さんいわく、教室の雰囲気はとても堅かったとか。
奥様の真実さんに証言をいただきましょう。
「耐えられないくらいの緊張感と静けさでしたね。私語をしている人はひとりもいませんでした。咳払いも気まずいくらい。暑いですね、とかそんなことも言えないくらいでした」
中澤さんが笑いながら解説してくださいます。
「弟子入り時代、私が厳しい環境で過ごしたものですから。私語や会話をするくらいなら、少しでも上手くなっていただきたいと考えていたのです」
真実さんは「なんでコミュニケーションが取れないの!」と、内心悶々といていらした様子。
そんな中澤さんの壁を取り払ったのは、たまたま二人だけになった教室での真実さんの一言でした。真実さんは言います。
「先生、今日、しゃべっていいですか、と言ってみたんです。それで、お話してみたら思ったりより堅い人ではなかったのです」
最近は、中澤さんにも少し変化が。
「先日、ゲッターズ飯田さんにお会いしたとき、『人に教えるのは苦手かもしれませんが、そのストレスも振り幅としてもっておくと、その反動としてまた作品にいい影響がでますよ』と言ってもらったのです。それで、だいぶ心境が変わりました。最近は生徒さんにはまず天気の話からします(笑)」
人は出会いによって変わっていくもの。中澤さんに生まれた柔らかさは、書にも影響を与えているのでしょう。