筆者が初めて手塚眞さんの存在を知ったのは1980年代半ば『朝日ジャーナル』という雑誌で、ジャーナリストの筑紫哲也さんが連載されていた「新人類の旗手たち」というインタビュー連載でした。当時、20代だった手塚さんは最初から「ヴィジュアリスト」という肩書きをもち、鮮烈で自由なアーティストという印象でした。
そして、それを貫いて来られています。
「ヴィジュアリストにはふたつの意味があるのです。ひとつは頭のなかのビジョンをビジュアライズ、つまり、人の目に見えるものにするということ。もうひとつはジャンルに捉われず映像をつくる、ということ」
確かに当時は今以上にCMをつくる人、映画監督、テレビディレクター、などという棲み分けが徹底していたように感じます。
「仕事を分け隔てする必要があるのかな、と思ったのです。たとえば当時は、映像作家というと趣味で映像を作っていて、映画監督は仕事で映像を作っているというようなところがありました。なにかひとつを撮ると、ほかは副業のように言われる。僕は仕事とか作品とか、分ける必要はないと思っているのです。つくるものはすべて作品です」
手塚さんは高校時代から映画を作り、すでにコンクールでたくさん賞をとって、プロとして仕事をしていました。その後、日大芸術学部映画学科へ進みますが、あえて監督になるコースは選ばなかったと言います。
「一番端っこに映像コースというのがあってね。そこには写真も含まれる。当時はホームビデオが普及し始めていて、それを使った作品も作りました。でもとにかくたくさんの映画を見ましたね」
今は機材がよくなり、お金をかけなくても映画を撮れる時代。手塚さんはだから「欲が育たないのかも」と苦笑します。
「スマホでも映像は撮れちゃったり、発表しようと思えばすぐYouTubeもある。だから上を目指そうと思う気持ちは薄くなってしまうのかもしれませんね。僕らはすぐ作れなかったから、欲があった」
手塚さんは、映画を単に知識として「知る」のではなく「体験すべき」だと考えています。
「今の人たちが僕らと違うのは、たくさん映画を見ていない。僕らはつくるより前に見るのが好きだった。自分が生まれる前の古いものまで遡って見ました。地方の小さい映画館で見たい映画を見つけたりね。ネットでちょっと調べて終わり、じゃなくて、映画は体験なんです。映画館に行って、大きなスクリーンで見るのが体験。そうじゃなければ、感性に響いて来ない。心に残る部分は少ないでしょう」
ものづくりに必要なものが、手塚さんの言葉からふつふつと伝わってきます。
「手近なものだけ見ていてはだめですね。クオリティの高くないものをお手本にしても仕方がない。自分が変われるチャンスを求めていない気がします。表現したいという欲求があれば、もっとできるはず」。