おじいさまの法要が終わり、家にあった和箪笥を開けた伊藤さんは、確信を持ちました。
「祖母や母の着物がたくさんあったのです。箪笥を開けた瞬間、色や模様が踊り出すように見えました。モノクロームだった私の世界がカラーになったように思えました」
そこで着物を着始めたところ、思わぬ周囲の反響もありました。
「『それはおばあちゃんが大好きだったの』『おじいちゃんとデートの時に着た着物らしいよ』などと、着物を着るだけで親とのコミュニケーションが生まれたのです。箪笥に眠っているもの起こすだけで親孝行になる。これは誰かの幸せに繋がるのだと。私は品物をただ売っているだけで、そういう人の幸せに繋がる実感がなかったのが寂しかったのかもしれません」
さらに伊藤さんがコンプレックスに思っていた顔立ちやスタイルも、着物を着るととても映えたのでした。
「安室ちゃんみたいなファッションが流行で、それについて行くのも辛かったし、似合わなかったんです。でも着物ならオリジナリティを持てるし、人にも自信を持って勧められると思いました」
目が覚めたように動き始めた伊藤さんは着付けの学校に通い、祇園で芸舞妓さんやホステスさんの着付けもするようになりました。
「朝まで着物で働く彼女たちの着付けは本当に勉強になりました。『苦しいからここの紐抜いたら全部外れてしもうた』などと言われて(笑)。紐はなるべく少なく、ピンで代用しようとか。毎日接していると、相手の呼吸で体調がわかるようになっていきました。胃の調子が悪そうとか、右肩だけ上がってるとか。ひと型ですから、帯の高さや帯締めの形、衿の抜き方、そういうディテールでそれぞれのブランディングもしていくのです」
女性たちからの指名が来るようになったある日、伊藤さんは、この仕事についてよかった、と思える経験もしました。
「ある腰の曲がりきった奥様が、孫の結婚披露宴に出ることになって。着物は無理よとおっしゃっていたのですが、留袖をお着付けしたのです。それまで私は綺麗に着せることが大事だと思っていましたが、奥様にとって苦しかったらどうしようもない。披露宴を楽しんでもらうために、着心地よくしてあげないといけない。そこで、その方には生地を載せていくように着せました。とても喜んでいただけました。その笑顔を忘れることができません」
その仕事があるから、今があると伊藤さんは思っています。
「着物の着方ありき、ではなく、その人ありきだと。この形にしてやろうと思うと、かえってうまくいきません。人付き合いと同じですよね。」。