それから、種岡は店に来なくなった。ずいぶん経って、O組の社員から、種岡に毎日どやしつけられていた碓井が自ら命を絶ったという事実を聞いた。
あの夜、確かにヒトミと自分は、店に来た碓井を見た。しかし、気味が悪くて、ヒトミともそのことを、後日、1度話したきりだった。
あれはなんだったんだろう。
なぜ、うちの店だったんだろう。
そんな経験をしたのは後にも先にもあれきりだ。
お盆だから、そんなことを思い出したのかもしれない、と、幸はふと思った。
あの後、種岡がどうなったのか、同じ会社の人たちも語らなかった。
あれから、もう30年以上経った。
種岡はどうしているだろう、と幸は思った。圧の強い男だったけれど、何も死ぬまで人を追い詰めようとは思っていなかったはずだ。昭和の、まだまだパワハラなんて当たり前だった時代の男だ。いじめようとしたのではなく、鍛えようという気持ちがあったのかもしれない。
人と人は、どうしたってすれ違うことがある。他の誰かに助けを求められなかった碓井のことも切ない。
ひょっとしたらもう、種岡も年齢的にこの世にはいないかもしれない。
幸は思い立って、普段は使わない伽羅のお香を取り出した。
香皿の上にとり、火をつける。
細い煙がすーっと立ち上がった。
まろやかで奥深く、甘さの奥に辛さがしっかりと感じられる。
からいなあ。でも、からいのも、ほろ苦いのも、ええねん。
香りを鼻腔に溜めながら、幸は目を閉じて祈った。
ー 安らかに。どの命も、人間の預かり知らない場所で、ともに受け入れられるように。
香りは深く、心にまでしみ入ってくる。香りと自分の境目がわからなくなる。
ことん、と扉の向こうで音がしたような気がした。
幸は立ち上がって、扉を開けた。
誰もいない。夜空を見上げると、半分以上欠けた月を、雲が拭き取っていくように流れていく。
少し風が出てきた。
夏も半分以上、過ぎていったようだ。
秋の美しい月を楽しみにしよう、と、幸は思った。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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https://www.facebook.com/aya.mori1
イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜100のメッセージ』など。
https://www.instagram.com/masamitsusaitou/?hl=ja