「あの、ちょっといいかしら」
「あら。凛花ちゃんのおかあさん!」
幸は驚いて、扉の前まで駆け寄った。
「どうぞお入りください。さっき、凛花ちゃんと、大城さんが…来てくれましたよ」
矢作夫人はきまりが悪そうな表情で、水色の薄いダウンジャケットをコート掛けにかけた。hernoというタグが見えた。下は黒のトップスで、顔つきをさらにシャープにしていた。左の髪を耳にかけて、椅子に座った。
「おめでとうございます」
幸が微笑んでお辞儀をすると、顔をそらして言った。
「あ、あの、私…、あの」
「何か、お飲み物でもいかがですか。今、美味しい白ワインを開けたんですが」
「じゃ、それいただくわ」
幸はグラスに、サンセールを注いだ。ほんのり黄緑かかった液体が、グラスで輝いた。
「乾杯」
「乾杯」
二人はちょっとグラスを掲げた。矢作夫人は、そのグラスに少し口をつけて両手でステムを持ち、静かにテーブルに下ろした。
「あの、私、あやまらないとと思ってるんです、あなたに」
「…」
幸はちょっと待った。矢作夫人の言葉を。
「いろいろ、失礼なことを言って。悪かったなって…」
「…」
何を言われたんだっけ。あ、そうそう、こんな店で娘が働くなんて許せないとか、いろいろね。… しかし、矢作夫人の口から「ごめんなさい」という言葉は聞こえてこなかった。
幸は気づいた。ああ、この人はあやまったことがないのかもしれない。あやまれない人っているのだ。ここへこうして来てくれたことが、あやまっているということなんだ。それでいい。十分、十分。
空気を変えよう。
「ずっとお料理されていたんでしょう。何か作りましょうか」
「え」
矢作夫人は思い出した。自分はすっかり何も食べていなかったことを。