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  • 第15話 本日のお客様への料理『菜の花と帆立のちらし寿司』

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🥂Glass 3

 その時、扉の開く音がした。背中に大荷物を背負った男が立っていた。

「あら、佐伯さん。こんばんは」

「ちょっと腹に入れてから、仕事しようかなと思ってね」

「今、東京からこっちへ?」

「うん」

 男は背負っていた荷物を壁に立てかけた。

「あら、チェロですね」

 矢作夫人が、その荷物の正体に気づいて、思わず口走った。

「あ… はい」

 佐伯は戸惑った表情をしたが、二つ座席を空けて、壁側に寄り掛かるように座った。

「じゃ、なんか作りますね。ご飯ものがいいかしら。それとも、パスタ?」

「今日はご飯ものなんていいなあ」

 つぶやいた佐伯の銀色の髪越しの横顔に、矢作夫人は釘付けになった。彼女は綺麗な男性が大好きだったのだ。うっとりと目線を外さないまま、言った。

「なかなかお見かけしない感じの方ね」

 幸は慌てて「そうですね」と答えた。

「チェロを弾かれるんですか」

「ああ、まあ」

 佐伯は前を向いたまま答えた。幸は彼の前にグラスを置き、ワインを注いで言った。

「今日ね、こちらのお嬢さんが、この店で出会った男性と結婚することになって、ご挨拶に来てくださったんですよ」

「へえ。それはおめでたいですね。あとで一曲、弾きましょう」

「えっ」

 幸は驚いて、冷蔵庫を開いたまま、振り返った。冷蔵庫の灯りが、微笑んだ幸を逆光で照らした。

🥂Glass 4

 お刺身用の帆立貝はさっと表面を霜降りにし、6等分に。
 菜の花はさっと茹で、水気をよく絞って、一口大に。
 焼いてあった卵焼きも、あられに切った。
 冷凍してあったご飯は2膳分、レンジで温めて、ボールに入れ、すぐに寿司酢との小田原のサマーオレンジの汁を混ぜたものをまぶし、炒った白胡麻を混ぜた。
 そこへ、菜の花だけを混ぜ、ホタテと、卵を散らす。
 この季節だけのばらちらしである。
 ほのかな酢と柑橘の香りが漂った。

「帆立と菜の花のちらし寿司です。おめでたいことがあると、大阪の家ではよくちらし寿司を作るんです。今の時代は、どうか知りませんけど」

「寿司屋までやっちゃうの」

 佐伯は笑って、いただきます、と箸を取った。

 矢作夫人も、小声でいただきます、と言った。イケメンの言う通りにするところが、凛花と似ている、と幸は思った。

「うまい。ワインを飲めるお寿司だね」

 佐伯は微笑んだ。幸はよかった、と、微笑み返した。

 しばらくして、手を洗った佐伯は、楽器を取り出した。

「あ、椅子がちょっと、高さがダメだね」

 そう言いながらも、窓際に座り直し、やや不自然な体勢で、静かにボウを弾いた。

 小さな店が、チェロの響きで温かく満たされてゆく。それはまるで、ちょうどよい心地のお湯に首まで浸るような感じだった。心がひたひたと、ちょうどよい温度に満たされていくのだ。
 人の声に近いと言われるその音色がうたう曲は、聴いたことはないのに懐かしいメロディだった。何度も繰り返される旋律には、まるで歌詞があるようだ。
 4分ほどの曲の間に、聴く者それぞれの記憶が呼び覚まされていくような。
 そこには佐伯洸という人の人生の記憶のメモも散らばっているのかもしれない。

「なんか、メロディが”でもね”って言っているように聴こえたわ」

 曲が終わると、矢作夫人はぼんやりとそう言った。
 幸は胸に満たされたものが溢れそうで、黙って楽器を見つめていた。
 そうして、二人は思い出したように、拍手をした。
 矢作夫人が聞いた。

「これはなんていう曲なんですか」

 佐伯は布で弦を拭きながら答えた。

「先日亡くなった、ヴァージャ・アザラシヴィリの『Song without words』です。グルジアの作曲家です。あ、ジョージアというのか、今は」

「アザラシ…」

「アザラシヴィリ」

 矢作夫人は興奮気味に「アザラシしか憶えられないかも」と言って笑い「素晴らしい、ありがとうございました」と、もう一度熱心に拍手した。
 そして、幸の方を向いて、はっきりと言った。

「幸さん、あなたのおかげね。本当にありがとう」

 たじろぐほどの目線だった。
 その「ありがとう」にも「ごめんなさい」は、ちゃんと込められていた。
 そのチェロの音色に春はまた一つ、歩みを進め、香りを深めたのだった。

筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
http://moriaya.jp
https://www.facebook.com/aya.mori1

イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜130のメッセージ』など。
https://www.instagram.com/masamitsusaitou/?hl=ja

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