「こんばんは」
岡部夫妻がやってきた。夏物のハンチングを被った良介の腕を支えるように、恭仁子が微笑んでいた。今日の恭仁子はダンガリー素材のワンピースだが、珍しく赤い口紅をつけていた。
「いらっしゃいませ」
良介、恭仁子、洸が並んだ。この3人が並ぶ姿は、まるで家族の様にしっくりくる。
「まだお酒はダメですかね」
幸が尋ねると、恭仁子が答えた。
「この人のだけはノンアルでお願いします」
「わかりました」
幸はクレマンの辛口を開けた。シャンパン製法でできたスパークリングで、安いシャンパンよりはずっと味が良い。そして、良介のためには、辛口でノンアルコールのシャンパン風のものを用意していた。
「へえ、こんなのあるんだね」
佐伯が興味深そうに見た。
「佐伯さんもこれがいいですか」
「いや」
乾杯し、良介の手術の話になった。10時間かかったこと。その間、恭仁子は祈り続けたこと。両手を組んで力を入れていたから、数日、手が痛かったこと。
「うまくいったんだけどね。ちょっと一つだけ後遺症が残ったよ」
良介は明るく言った。佐伯は表情を変えることなく、彼の顔も見ず、務めて冷静に言った。
「後遺症?」
「うん。匂いがしないんだよ」
恭仁子が顔が少し曇らせて、説明した。
「でも、一旦、会社は退職してるから。再雇用になって、それも関係ない部署になったから、まあ、支障はないし」
そして、いぶかる様に見つめた幸に、言った。
「あのね、良介は調香の仕事をしていたんです。香料会社だったから。香水じゃなくて、柔軟剤とか、洗剤とか石鹸とか、とかそういうものなんですけどね」
「そうだったんですか」
幸は、いつだったか、良介が店のお香の残り香に敏感に気づいたことを思い出した。あれは、職業柄からの繊細な嗅覚だったのか。
恭仁子は空気を変えるように言った。
「神様が、もう仕事はほどほどでいいよ、休みなさい、って」
「そうですね。きっとそうですよ」
幸も頷いた。しかし今日、食べてもらおうと思った料理のバジルの香りは、涼介にはわからないのだ。そう思うと、胸が痛んだ。
さらに空気を明るくしようとした良介が、思いついたように付け加えた。
「そうそう、この間、不肖の娘がね、俺たちに旅行をプレゼントしてくれてね」
「そうなの。忙しい忙しいって、全然家に寄り付かないのにね。箱根にね、1泊で行ってきたんですよ。仙石原のすすきを見てこいって。お月さまがきれいでね。月の光がこう、道をつくって、そこを歩いていると、いつか月にたどり着けそうな気がした。きれいだったわ」
恭仁子は頷いて、静かに言葉を添えた。
「すすきは匂いがしないから、お父さんも楽しめるでしょう、って。あんな優しいことしてくれたの、初めてよね」
佐伯はその光景を想像するように斜め上を仰いだ。
「そりゃあ、いい。素敵なお嬢さんじゃない」
幸もその話に心を動かされ、ふと盛り付ける手を止めて、にっこりした。恭仁子はその笑顔に応えながら言った。
「でもね、雨上がりのすすきはとてもいい香りがしたの。良介も思い出の中からそれを思い出してくれてね」
「記憶の中の香りは憶えているんだね」
佐伯はまた遠い目をした。良介は頷いた。
「憶えているよ。いろんな香りを、いろんな思い出と一緒に憶えてるんだ」
「たとえば、どんな」
「台風の日に、部室の窓をひとつ閉め忘れたことを思い出して、すごい風の中を、たどり着いた時の、部屋の匂い、とかさ」
恥ずかしそうに恭仁子が笑った。
「あのとき、気になって部室に行ったのは、良介と私だけでね」
「へえ。あ。…それ以上、言わなくていいよ」
佐伯が笑って遮った。それが良介と恭仁子が付き合うことになったきっかけなのでないかと、先に勘づいてしまったのだった。
当時は携帯電話などない。ポケベルもまだ学生はもっていなかった。そうして偶然出会うことは、運命、でしかなかった。