思い出の香りの話は続いた。
「結婚してすぐの夏休みに、富良野に行ったわよね」
「ラベンダー畑! あれはいい香りだったなあ」
良介と恭仁子の微笑ましいやり取りに、佐伯はだんだん寂しくなってきた。若い頃なら、何か恭仁子をこちらに振り向かせるようなことをしたかもしれない。
でも、もはや、その寂しさもいいもんだ、と佐伯は思い直した。寂しさも素敵なものとして味わえるようになるのが、歳を重ねることの良さなのだ。
「その後遺症さ。それ、治んないの。なんかほら、リハビリとかないの」
佐伯の言葉に良介は首を振り、恭仁子は俯いた。
「…うん。でもね、リハビリっていうか、何か、体は動かした方がいいと思うの」
恭仁子はやっとのことでそう言った。 佐伯は、ずっとあたためていたものを取り出すように、言った。
「良介さ、もいっぺん、弾かないか」
「え」
佐伯の左手が見えない弦を押さえ、右手が見えないボウを引いた。 その瞬間、それぞれの心のなかに、チェロの音色が立ち上がった。
「無理だよ。今さら」
良介はごまかすように、から笑いした。しかし、恭仁子は真剣にその横顔を見つめていた。
「聴きたい。私、もう一度聴きたいわ」
佐伯も、良介の横顔を見つめていた。二人から見つめられた横顔は、微かに頷いた。
筆者 森 綾
フレグラボ編集長。雑誌、新聞、webと媒体を問わず、またインタビュー歴2200人以上、コラム、エッセイ、小説とジャンルを問わずに書く。
近刊は短編小説集『白トリュフとウォッカのスパゲッティ』(スター出版)。小説には映画『音楽人』の原作となった『音楽人1988』など。
エッセイは『一流の女が私だけに教えてくれたこと』(マガジンハウス)など多数。
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イラスト サイトウマサミツ
イラストレーター。雑誌、パッケージ、室内装飾画、ホスピタルアートなど、手描きでシンプルな線で描く絵は、街の至る所を彩っている。
手描き制作は愛知医大新病院、帝京医大溝の口病院の小児科フロアなど。
絵本に『はだしになっちゃえ』『くりくりくりひろい』(福音館書店)など多数。
書籍イラストレーションに『ラジオ深夜便〜珠玉のことば〜130のメッセージ』など。
https://www.instagram.com/masamitsusaitou/?hl=ja